人間として「善良」であることは、何も東アジア儒教に限らずとも、すべての人間社会に共通する価値であり続けている。
それは、「善良」でなければ、人とのまともなコミュニケーションが成り立たないからであろう。
人間は他者とのコミュニケーションを深く行う動物である。
嘘をつかない。人のことを思いやる。人にとって不利益なことをしない。
これらはそのコミュニケーションのために欠かせないことである。
だから「善良性」は教育される。
逆に、嘘をつく。人のことを考えない。人にとって不利益なことをする。
そんなことが知れたらまともに相手にしてくれる人がいなくなる。
しかし、それは最早過去のこと。
この高度に進んだ資本主義社会では、利益を上げるとは、何かをできるだけ高く提供すること、またそれに伴う人件費などの経費をできるだけ安く抑えることによって成立する。
とはいうものの、これを一概に括るのは無理である。
利益を出すことが目的ではない「仕事」もあるからである。
その代表は「公職」である。「公職」に就く者は、予め徴収された税から決められた給与を受け取るのであるから、利益を上げることとは無関係のはずである。そうして、こうした職に就く者は、一般の人より「善良さ」をより厳しく求められるはずである。だから、公務員が嘘や不正を働くことは、一般の国民より罪が重いことになるはずであるのに、実際はそうはならないところが不思議である。
話がそれた。
現在私たちの生活する社会が、ものを売ったり人を使ったりすることにおいて、いささか悪く言えば、多かれ少なかれ人をダマして利益を上げる行為をする宿命にあることは、悲しいが否定できない「現実」である。ここでは「善良性」は役だたない。
日常生活における人間交際においては「善良性」は欠かせないが、そうではない生活行為の隅々で、ただ「善良」であるだけではダマされまくりになってしまうことになる。
だから、ダマされなくなる教育が必要である。
だが、その教育にこそ「ダマし」が内在していたらどうなるのだろう。
それに対抗し得る、ほぼ唯一の手段が、国語力の自発的伸長である。
ダマされない人間になるためには、聞ける、読める、書ける、話せる、考えるなどの言語能力の発達が欠かせない。
なぜかと言えば、それは「ダマす」とは言葉によってなされることだからである。
でも人は普段自分が言葉を使うことから、あたかも息をすることと同様に、それを意識することはない。
「善良性」は人とコミュニケーションして生きていく上で欠かせない。また、「善良性」とはよく学ぶことの柱でもある。
言語能力は、ダマされずに生きていく上で欠かせない。また、学問や学習は、言語能力の向上をその条件にしている。
「善良性」と言語能力が一体化すると「聡明」になる。
Carromyは次回。