夫は玄関に揃えられたきれいなママたちの靴を見て、なんだ、またなにかママたちの集まりがあるのかとか思って軽くリビングへの廊下を進むと、なんと耳にキャロムをやるカチンカチンと言う音が聴こえてくる。この音にコンプレックスが潜在する男の耳に、それが「コテンパチン」という音に響いたとしても疑いはない。ここで出て来たママの耳元に、「なにやってんの?」と小声で尋ねかけると、妻は「実は子どもたちにゲームをやめさせるためにキャロムを普及させるための教育活動中なの」と言う。しかし、リビングドアのガラス越しに浮かび上がるのは、並べられた3台のボードと、それに向かい合って夢中で嬌声を上げ合う、息子の友達の母親たちと思われる女の人たちの姿である。
見てはならぬものを見てしまったことを動物感覚的に察知して「イザナギノミコト」化した夫は、「忘れ物をしたのでちょっと取りに帰った。皆さんごゆっくり」と言ってすぐまたドアを後にした。というより逃げ出した。関係ないが、この夫は中高一貫男子校の出身者で大学では理系だった。妻よりは3歳年下である。
「夫」は道を歩きながら考えた。
—なんてことだ。オレたちが身を粉にして働いている最中に妻たちは平日昼間からキャロムをしてワイワイ盛り上がっている。何が「普及活動」だ。長年あの女と付き合っているオレがいまさら反論しても意味のない会話になると判断して引き下がることは先方重々わかり切っているはずだ。何のことはない。楽しく遊んでいるだけなのではないか。しかもこの運動神経抜群のはずのオレが、毎夜コテンパンにされるのにはこのような「カラクリ」があったのか。畜生!この恨みは今夜のキャロム対戦で晴らすしかない。しかし、あの様子では、敵はさらにトレーニングを積んで腕を上げてきているはずだ。サンドバック役の息子もいない。このまま対戦して、むざむざまた負けて、「でもあなた少しお上手になったみたい」とか男のプライドというものを全く理解しない、自分たちが子どもを産めるだけで圧倒的に存在感を提示し得ると勘違いした女たちの発言に、いったいどうして耐えられようか。子どもを妊娠できない男としてこれは負けるわけにはいかない戦いである。かくなる上は・・・・」と思い、即座にネットで「キャロム すぐできる」と検索すると、そこには予想外に多くのヒットがあった。中に5番目くらいにあったのが、
「吉祥寺キャロムバーーいつでも対戦相手が見つかります」
であった。
これだ、これだ!と、すぐさまその店にスマホで電話すると、ああうっとりとするように気持ち良いキャロムのカチンカチンという響きを背後音に電話に出た上品そうな声の女性は、「今日はいつでも可能です」と答えた。何か風俗の女性と連絡したような妙に不思議な感触を持ちながら、「これから行きます!」と告げて井の頭線に乗ってその店のある吉祥寺駅の南口に。
-Maybe continued