元大学教授は、文学歴史、哲学社会学関連の本をいくつも出し続けている当代随一の知識人だった。翻訳書も多く、それもフランス哲学から現代アメリカ社会学までへと広領域に渡っていた。
また一見正直そうに見えて、ひねりの利いたユーモアをも取り扱い、おまけに爽やかで無理なく上品だった。時折、意地悪そうな目つきを垣間見させることもあったが、自分から意地悪することは滅多にないようだった。
禅の僧籍をも持つこの元大学教授が、ある晩、いつものように、彼のお気に入りの暖炉の前で、ちょうどいい肘掛け椅子に座って、入浴後のガウン姿で、気持ち良く瞑想していると、そこに「神」が現れた。
この「神」は、確かに存在しているがその姿は見えないものであり、世界共通言語で彼に話しかけた。
—とどのつまり、汝の最も望むことは何か?
これに対する元大学教授の心の中から湧き起ってきた答えは、瞑想中のことであるから、それはいつもの人前のようにうまくセーブできなかったのであるが、つい、
「本が売れてヒマができてやりたいことができること」
という我知らずのものが浮かんでしまった。
そもそも「テレパシー」でやってることなので、この声を「神」が聞かないはずはなかった。
これに対しての、見えない「神」の言葉。
—それでは、何を最も望んでいるのか分からない。売れたいのか、ヒマになりたいのか、遊びたいのかわからない。
元大学教授は答えた。
「では、まずもっと売れたい」
—その「まず」っていうのが曖昧なんじゃよ。それで結局、どうなるの?「遊びたい」って言うのが最高願望なのか?
「わかりました。では、遊びたい」
—それは奇妙なことじゃ。遊びたいなら遊びなさい。今でもこうして遊んでいる。
「ウーじゃあヒマが欲しい!」
—それも奇妙なことじゃ。汝にはこうしているヒマがある。すると汝の望みの中で汝自身の力でどうしてもなせないことは、売れる本を書くということなのだな。ではそれを叶えてあげよう。汝に売れる本を書かせてあげよう。だがその前に、その「報酬」はなんじゃ。いかな「神」でも、「報酬」もなしに願い事を叶えることはない。
「神殿を建てて祀ります」
—それは私の趣味ではない。だいいち私には名前がない。ダサい名前も欲しくない。さあ、予め具体的な報酬を差し出せ。
世渡りの上手い元大学教授は答えた。
「印税の30%で如何でしょうか?」
—バカにするな
「45%では?」
—ダメダメ
「では50%では?」
ーチーン!汝の願いを叶えよう。
しかし、それきり「カミ」はやって来なくなったそうだ。
元大学教授の話を聞いて、どういうことだろうと尋ねられてもどういうことか全く分からないから答えようのない話である。