27日にオバマ大統領の広島訪問があり、その前後で「謝罪を求めるべきか」などの議論が起っていたが、1961年生まれのオバマ氏が生まれる前の戦争について「謝罪」するのも不自然だと思っていたら、演説では「『過ち』を認め、これを記憶に残し続けよう」といったニュワンスになった。
一度に10万人近くの人が死ぬ。そんなことは人類の歴史で一度(正確に言えば長崎で二度)しか起きなかった。
しかも死んだ人は戦争の当事者ではない。
しかし実はこれは軍部の独走とポツダム宣言無視の結果だったことも我々は知る。
「大和魂」は、リスクの大きな「博打」を選びがちである。
それにしても、あの原爆を原子炉に込めて燃焼させ、そこから熱を得て利用しようと言うのであるから、これまたあまりにリスクが大きすぎる。
中国政府は、「実現不能な理想論をかざす単なるパフォーマンス」と冷静であるが、なるほど中国が今あるのは過去180年前から行われた、イギリス、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして日本の侵略に対する恨みのパワーの逆噴射の結果ということもできる。
アヘン戦争以降、中国は列強の食い物にされ、その決定打に日本の侵攻があった。第二次大戦中の中国人死者数は2000万人近いとされ、旧ソ連と同様最大級の死者を出している。
この中国から見れば、イギリスに対する怒りは到底消えるものではないであろうが経済主体の英国外交をし、朝鮮戦争以降アメリカに対する怒りも消えることはないはずだがこれまた経済主体の米国外交をし、日本には侵略の恨みは消えないことを繰り返し伝えてくるが経済的結びつきは強くなっている。その中国の本心からすれば、自己権益のために多数の中華民族を犠牲にした日本を含めた列強のしたことは広島原爆以上に到底許しがたいことであるに違いない。ゆえに米国大統領の献花は「茶番」にしか見えないというわけだ。
平和な我々には遠いところのことのようだが、今もシリア、トルコ、イラク、パレスチナ、リビア、ナイジュリアと戦乱が続き、いつ死んでもおかしくない生活をする人々がいる。
一切はやがて「過去」のことになるのであろうが、記憶に残すだけでは足りない。
我々一人一人が真っ当に生きるように努力することが大切なのであろうが、それにはまず「祈る」ことが欠かせないということなのだろう。
池のオタマジャクシは、全てドジョウによって食べ尽くされた。