カタカムナ音読、リベラルアーツ、月の遠近WAVE、そして焚火と連続的に行なってくると、そこにその効果が思ったよりも大きくて、子どもが健やか賢く育つ何かが確実にあることがわかってくる。
同じ何かではあっても、ある「何か」には、それがわかると他のこともよく分かるようになる「何か」があるものがある。
火がついた状態—つまり「活性化」された状態。
これは都会の教室ではできないが、そこをやや離れた自然の中では簡単にできる。
子どもに焚火をさせること。
そのことはあらゆる教育に先行すべき教育環境設定である。
人間活動の起点と中心に火がある。
先ずそれがあってから「教育」があるのである。
このことを「捨象」した一切の教育関係者は、「泥」をなめているに過ぎない次元を超越できない人たちなのであろう。
このメカニズムの大切さを忘却した現代人は、自己の感性に非直感的なバイアスをかけていることに自覚的でない人たちであるとも言える。彼らは「情報」を判断する「基準」を持たないはずである。
「焚火」がなぜ好いのかなんて誰も言葉で説明できない。
ただ「善かった」と思う感触が残るだけ。
「宗教」の本質と「起点」が、「火」であったことが確信されて面白い。