碓氷バイパスの「思い出」 | JOKER.松永暢史のブログ

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中山道は、江戸と京都を結ぶ内陸道である。古くは坂東と信濃を結ぶ街道でもあった。東京→埼玉→群馬→長野→岐阜→滋賀→京都と繋ぐ。
かつては東京から長野西北部の菅平、志賀などの豪雪地帯に行こうとすれば必ずこの中山道=国道18号を通った。いや通らなければ行けなかった。
今から50年前、ボーイスカウトのスキー合宿が奥志賀山田牧場で行なわれた時、10歳の筆者は、初めて「碓氷峠」を体験した。
群馬県側横川と長野県側軽井沢との標高差が約600mもあるため、カーブが184箇所もあるそうで、初めての深夜バスで車内の空気悪く酔ってゲロゲロになったものだった。
直後の小学校6年の時の修学旅行は軽井沢へ行ったが、この時は熟練したバスガイドの適切な導きにより、酔う人がほとんどいなかった。最後は皆でカーブ表示の番号を声にしながら凌いだものだった。カーブが終わって道がなだらかになってバスの速度が上がったときの爽快感は忘れられない。
1972の夏、中3の筆者は、自由参加の林間学校で軽井沢に行った時には驚いた。
横川を過ぎ、さあいよいよ碓氷峠だぞと身構えていると、どうも様子がオカしい。バスは有料道路に入り、素晴らしい道路をそう大してカーブせずにどんどん登る。カーブを数えている意味もなく、あっという間に軽井沢側に出た。
これが1971年に完成された碓氷バイパスである。バスガイドがそれまでの碓氷峠の交通の困難を語り、そして誇らしげにその完成をアナウンスしたことを覚えている。これは名前だけ「碓氷」で、碓氷峠は通らずに、入山峠を通る南回りのルートである。これでもう地元の人とドライブ観光客以外誰も碓氷峠なんて通らなくなった。
筆者の年代の者にはこうした「思い出」があった。
そして、1985年の関越道、1999年の上信越道開通で、東京軽井沢間は2時間以内になった。おまけに82年には上越新幹線も開通した。峠の釜飯屋は、新幹線の駅と高速サービスエリアに店を出した。
2001年、碓氷バイパスは無料化された。
もう東京から長野へ抜けるのに誰も碓氷バイパスなんて走らない。上信越道なら高速道路、要所はトンネルで大きなカーブなくまるで慣れた中央道のように快適に走れる。
なぜバスは、碓氷バイパスを走ったのか。どこで高速を降りたのか。
群馬県側から急カーブ群を抜けて入山峠を越え、長野県側に入りなだらかな下り坂になったところで思わずアクセルを踏み込んで乗客に「ヤバい!」と感じさせるほど加速し過ぎた。
今にして思うと、ドライバーにこの日が近地点であることを予め知らせておく方法はなかったのかと悔やまれる。
これから将来を所望される学生が多く命を失ったのは本当に痛ましいが、その学生たちが乗るバス会社に雇われて、老後の生活の糧を少しでも得ようと懸命に働いていた男たちが、彼らにはもはや考えられないほど光り輝く未来がある若者たちを連れて世を去ることになるとは、現代社会に象徴的な「悲劇」と言わざるを得ないと感じる。
運転手たちには、筆者同様の「思い出」があったのではないか。
犠牲者たちの冥福を祈ると同時に、年齢をわきまえて、特に高速走行時、無理な運転をしないように自ら強く戒めたい。