自分が思い込んでいることは本当に正しいのか?
その答えは常に「部分的には正しいところもあろうが全体的には確信できるとは言えない」ということになることだろう。
もしも予め「正解」が決まっているなら、逆にそこには何の「可能性」もないことになるだろう。
つまり、予め決定されていることはないのである。
あるのは「結果的事実」のみ。
「現象」が「予測」を変形する。
だから、「先」のことは分からない。
いったいどのようなことに遭遇・体験するかは予測がつかない。
「決まっている」ことなどないのだ。
すると、するべきことは、その「想定外」の状況への「準備」、あるいは対応適応能力の養成ということになる。
何が起るのかが分からないことが前提であるから、何が起ってもやっていける人間をつくることが正しいことになる。
様々なことについて、充分な体験がある。
自己の連続的な感性判断を発展成長させ続けている。
成長とともに、より「分かる」ことを実感して生きている。
一つ一つの体験認識を覚醒的に捉えている。
自分が何をしたからこうなるということに目覚めている「主体」がある。
それこそが「教育」が与えようとすべきものである。
追体験が永続することを確信して生きるようにする者。
彼らに幸あれ!
彼らには、予めそのご褒美に、「焚火」を与えよう。