焚火のおかげで元気が出る。
ドンドンどんどん動き続ける自分をまるで空ゆく雲のように「同調認識」するが、自分が「何をやっている存在なのか分からない」という認識が、積もる体験によって、自分が直感決断行動によって、自分のやりたいことを主体的に選択して「追体験」・「認識」し続けて行くだけの存在であるという認識に変化していく。
自らの環境からの「刺激」に誘発されて、そこに生じた「直観」を、経験を飛び越えて「判断決済」し、即座にそれを追体験的行動に直結させる。
子どもの本当に学習していることはまさにこれである。
アクティブであることと同時に、自分のしていることにより認識的になる。
オモロいことが、どうオモロいことなのであるのかを見極めようと、実験・体験・認識する。
サルにはできない、「人類究極」の姿はこれであろう。
それには、このように「書くこと」が前提となる。
書くことが決まっているからこそ、「認識」が研ぎすまされる。
勿論ある意味で、「芸術」=創作表現は、その「上」を行くが。
書くこと=「自己表現すること」に変換されないのであれば、いかなる感受や思考も、あたかも「夢」のごとく存在しなかったことになってしまう。
「敏感」になることーより主体的に「観察」すること、そしてそれを「記録」しようとすること。
「追体験の旅人」になろうとすることーいや、結果的にそうなってしまうこと。
自分の核心的にやりたいことを、「ダイアローグ」→状況直観把握して、その「実行」を連続し続けること。
それは、「脳内」においてだけでも可能なことであろうが、ふつう我々は「快感」を求めるために、「実際行動」に移す。
自己の「認識」について、より「意識的」になる時、「人は追体験の旅人」と化す。
「していること」と「認識」が入れ替わる。
否、「点滅」する。