「ナマ」というクオリア | JOKER.松永暢史のブログ

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吉祥寺や渋谷と三宮を比較しては失礼かもしれないが、神戸の街を歩く女の人たちの全体印象には何か東京と異なるものがある。
それがなんであるのかを知ろうとすることは、いつも関西に来たときの楽しみの一つなのだが、それがはっきり解明できたことはない。ただ谷崎の作品中の関西女性の描写がいかに優れていたものであったかを、今更ながらに感心してしまうだけである。
女の人は様々なものを身に纏う。顔の化粧、体系の調整、服装、容姿、たたずまい。そしてその背後には、生活性、社会性、世間体、生活実感といった様々なものが積層しているはずである。
しかし、その装いも、もともとの「ご本尊」があっての装いのはずだから、装いには自らのご本尊の「演出」があるはずだ。
ところが東京では、種々様々な人が住んでいるのだから決してすべてがそうとはいえまいが、どうも自分をやや隠すところが大きく見え、「装い」の結果、ご本尊が何であるのかさっぱりわからない、あるいははっきりしない印象になっていると、こうして神戸に来ると思う。
関西の、いや神戸の街行く女性たちには、渋谷ヒカリエ辺りを通り過ぎる女性たちに比べて、「生(ナマ)性」のようなものが強い。「装い」によってもともとの彼女たちがじんわり表に現れているように感じられる。
これはなぜなのだろうか。
東京の女性たちはどちらかと言えば「自分を消す」傾向があり、関西の(神戸の)女性たちは「自分を消さずに出す」。
ともにおしゃれを愉しんでいることはよく分かるが、そう見える。そこに「ナマ」のクオリアが現象する。
なんでやろか。
単純に「派手」と言って済ますことはできない。派手目な人はどこでもいる。
そもそも「装い」の意味がちゃうんか。
それとも「自分らしさにこだわりを演出する」とか流行っているのだろうか。
それとも神戸の女の人はお金持ちが多いのかな。外車の数も多い。
古文で「なまめかしい」と言えば、「上品」「優雅」といったニュワンスになるが、この「ナマ」とはどうもニュワンスが違うようだ。
同じ国なのにこの違いはいったいなんなのだ。
と、大先達も思ったに違いない。
連休中の高速はやや混んだ。朝6時に出て、奈良に着いたのは3時だった。
奈良から神戸への移動は1時間以内だった。
今日は鳥取に向う。