「夏」は終わって「秋」になったが、相変わらず忙中限りはあるが物置のシロアリ退治などいろいろなことをしている。
蚊に刺されるので防虫もしている。
また別にロンドンから帰って来た生徒も訪ねてくる。
明朝より車で→奈良→神戸→鳥取倉吉と音読、講演の旅に出るので、その準備もしている。
講演内容は、カタカムナについて、これからの我が子の教育について、日本語古典音読の大切さについてと、これに加えての音読読み聞かせの方法の伝授である。
決して優秀とはいえない自分が、偶然かいま見てしまった学問・教育の「奥義」と「王道」。
いたずらな「権威」なくしてそれを伝えることのかえってこのクソ難しさよ。
だからこそ実は逆にやりがいがある。
ここには「真実」があるのである。
日本人すべてが賢くなる究極的方法、それはすべての文書の基の日本語古典を音読直解する言語了解能力を付与することに他ならない。そうでないと「日本語」というものを了解することはできない
私が伝えたいのはそのことである。
しかし、すでに戦後教育政策により「古文アレルギー」を喰らわされた人々は、まるで自転車に乗れない人が、水の上を泳ぐことができない人が、「できない」と思い込むかのごとく、自分たちの文化・言語母体の日本語古典を「読めない」と思い込まされるのである。それは日本語の深さに気づかないで生きることである。
これを覆すのが筆者活動の目的である。
誰でもできる。
日本人が日本語古典を音読理解してその音とリズムを躯(左脳捨象右脳「あはれ」の域)で体感してしまう。
すると、日本語というものが見えてくる。
私たちが当たり前に用いる日本語が、実は意味の世界でこれより深い伝達が他にはほぼ困難なことを可能にする極めて高等な言語であることが見えてくる。
日本で勉強して、日本語が優れるようにしないなんて、すべてインチキ教育である。過去の産物である。大切なのは知識ではなく日本語で了解することなのである。
私たちが古代より日本語古典を一音一音切って読めば、和歌の音に立ち帰れば、すべて日本語は古代より変わることなく現象している言語であることがわかる。
あらゆる新教育も、文科省が主張する、主体性も、能動性も、AO入試も、そしてアクティブラーニングもすべてその教育は日本語によって行なわれている。
この「事実」を基に、今子どもたちに広汎共通に最優先で与えるべきものが日本語古典の音と意味とリズムの流れの聴覚的伝達であることに反論することができる者は「冗談」以外にいないと思う。
乱れた。何を書こうと思って机に向ったのか忘れてしまった。
そうだ。それは朝井泰生のことだった。
車のラジオで、放送大学がつまらないのでたまたま聴いたNHKのFM放送で、ビューティー・ペアの『かけ巡る青春』というのを耳にした。
筆者は読者ご存知の通り、この方面全く素養がないが、なぜかこの曲をアタマで反芻するクセがついた。どうしてだろうか。女子プロレスを職業にした女性たちの人生に興味があるのかと不思議に思って、youtubeでこの歌を検索して聞き直すと、自分が興味を持つのはその演奏のアレンジとギターにあることがわかって、ネットで調べて行くとこれを弾くのが、どうやら朝井泰生というギタリストであるらしい。この人のライブに行くのが当面の新しい好奇心の対象ということになる。いやこれだけではない。実に実際様々な「出逢い」が錯綜しているのである。
ミスをする他人を事前に察知することによって、決して事故に遭わないこと、「油断大敵」をキモに命じて旅立ちたいと思う。
合い言葉は、「利潤よりオモロさの追求」だ。
オモロくなければ何事も始まらない。
意味がない。