ノーベル賞ゼロだからAO入試? | JOKER.松永暢史のブログ

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扶桑社新書から出た『90分でわかる日本の危機』で、作家の佐藤優氏と下村博文文科省大臣との短い対話を読んだ。
その中で下村氏は、ノーベル生理学賞・医学賞を受賞した利根川進博士が、日本の大学入試改革を推進する根拠として、日本で最難関とされる東大医学部からのノーベル賞受賞者がこの100年間ゼロである一方で、決して米国最難関ではないシカゴ大学から65名も出ていることを指摘していることを挙げ、東大医学部は単に最難関であるというだけの理由で受験して入学する者たちが多く、その優秀者は、単に暗記・記憶中心の試験問題に優れるだけの人たちで、その多くは特に医学・生命現象に強く関心を持つ者、畢竟国民の衛生と健康に役立つ人材ではないという結果になっており、アドミッション・ポリシー(生徒選抜についての考え方)を変える必要があると主張している。
到達度試験で測る基礎学力は軽視しないが、本人がやりたいこと学びたいことがはっきりしている者を選抜して行こうというわけである。シカゴ大学全体と、東大部分集合医学部の数値を比較しても意味はないとケチは付けたくなるが、わが国最優秀と目される機関から受賞者が一人も出ないというのはやはりどう見ても妙なことでもある。
しかし、センター試験を始め、記憶偏重競争試験をずっと容認推進して来たのは他ならぬ文科省なのである。それに、センター試験の前も東大医学部入試はあった。
これは戦後急速に高まった民主化の中から起って来た左派的勢力の拡大に対抗するための教育政策として1970年以降取られた方向性の否定、あるいは「変換」である。
学生運動の拡大の中で、政府は高校生のものを考える時間を奪うことを考えた。そして、ただでさえ多い履修科目に加えて暗記型の試験を拡大し、そのための勉強時間を増やさざるを得ないようにした。受験のために読書を控えるというのは本末転倒であるが、受験に関係なければ本も読まないという人も増える。世では人々が読書を止めて、低劣なマンガ読み物やテレビ番組に時間を取られるようになり、やがてそこにネット環境が現れて、スマホまみれになるというわけだ。多くの人がメールのやり取りをするうち、そこにこれまでとは異なる人間価値判断が現れるようになった。どのぐらいウソつきでどのぐらいバカか、どのくらい誠実でどのくらい賢いか、どのくらいわかっているのかわかっていないのか丸見えになってしまう。もうそこでは賢さの基準がこれまでとは異なってしまっている。そこでは、何か細かく記憶していることは、単なる「オタク」としてだけ片付けられてしまうことだろう。
東大でも本格的にAO入試を始めるのであろうか。医学部の問題について言えば、どうせ初めの2年の教養課程は他と同じなのであるから、「東大理系」とでもしてバックリ採って、専門課程から希望者を振り分ければよいだけのことなのではないだろうか。
でも、もはや何をやっても始まらない。日本の教育はシステム全体が腐ってしまっている。
大学入試をアドミッション型にすれば、フツーの生徒たちの混乱は大きくなる。
フツーの生徒は18歳で自分の学びたいことなどまだはっきり定まってはいない。
良い就職が可能な大学に進んで楽しく過ごしたいと思うだけの者がほとんどであろう。
そして企業が育てて欲しいのはそういうフツーの人材である。
とは言うものの、本を読み文章を書く習慣は避けては通れない世の中が来るようだ。
これは恐ろしくも楽しみなことである。
これまでの日本の歴史で、この方向性にベクトルを切った場合の日本語の高まり方はえも言われぬものだった。
どうやら多くの人は、大学というものよりも、それに至る過程でどのように自己の能力を伸ばして行くかを考えながら、自分の特質にあった技術をできるだけ複数以上磨いて行くことが生き残りに直結することに思われてならない。
それにしても、これまでの日本の教育が変わるなんて、中学生でも信じないことだろう。