ラ行以外のあらゆる一音からなる子音母音に「る」を付けると動詞ができる。
たとえばカ行では、刈る、切る(着る)、来る、蹴る、凝るなどである。
このことは、日本語のかな文字一音一音に抽象的な思念があることを、我々が暗黙のうちに共有了解していることを示していると思う。
英語でも同じはずだが、原始状態で、すべて言語は一音一音をくっつけてできたものであるはず。最初に一音で指し示す言葉があった。それが長い間に繋がって話すようになった。それが集団で共有され世代交代後も残った。
日本語の一音一音にある抽象性、それがいかなるものであるかは正確には言葉では表せない。
「き」と言っても、そこには「木」、「気」、「記」、「奇」などがあり、中には「黄」なんてものもある。
でも言われてみると、例外はあるのかもしれないが、何らかの抽象的なつながりがあることが直感的に感じられてしまう。
それは何なのか。
これは言語に関することであるから明らかに後天的なことがらである。
一音一音切って読むことの大切さを主張すると、それではこれまで読み聞かせが上手な人がその技術を使えなくなるということかという質問にたびたび出逢う。
もっともなことだと思う。中には敵意を抱く方もあるようだが、それは誤解であることをここに断っておく。
もしすでに音読が上手な人が一音一音法を練習するとどうなるのか。それは前より格段に音読技術が上達するのである。
上手い人がもっと上手くなるのである。
そもそも上手い人が、日本語の一音一音を味わって滑らかに読めば、そこには予め想像できないほど上手い音読が現れる。
クラシクスの音読により、現代文の基となる音とリズムと意味の伝わりを確認する。
それが分かれば、速く読む時でさえも、嫌でも一音一音をはっきり大切に読むようになる。
できないのはテレビのアナウンサーのナレーションくらいである。
助詞と助動詞がよく聞き取れない。
ああいう日本語を子どもに聴かせるのは間違っているのではないかと思ってしまう。
一音一音音読法—日本語古典を一音一音切って読む練習を年代順にすること。今のところ、これより上の音読訓練法はこの世にないと思うが、これは誰でもできてしまうところが恐ろしいのである。