子どもを学校に行かせたくない親 | JOKER.松永暢史のブログ

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文科省と中教審では、高校生の達成度テストをどのような形にするべきか、一般からの意見を募集して来たが、考える力を見る試験として、部分に記述解答を求める形を取ると発表している。これが全体のどれくらいの部分なのかはわからないが、多くの人が受験する場合、大人数の採点者が必要になるが、これをどうカバーするのかは難しいので、結局超短い記述解答を求めることになってその意図が無意味化する可能性が高い。
さてこの一方で、最終的にこの試験を受けることになる若者の小中学校においては、不登校でもフリースクールもしくはホームスクールとして学習すれば、学校に来なくても良いという方向性が示されている。最早増え続ける不登校者の群れを管理することはできず、各家庭が主体的に学べばそれで良いと、ある意味で責任を放棄しているのである。
高校生の到達度試験は、英数国の3科で行なわれる予定のようである。
最近、不登校ではないのに学校に行かせたくないという小学生の親の相談が続いている。
一つは、例によって、学校担任の教師が多人数の多様化した子どもたちの対処を細やかにすることができなくて、子どもに害を及ぼしていると思われるケース。
もう一つは、学校で行なわれている学習は意味がない。学校に通うとその分自分たちのやりたい学習ができなくなるので、時間がもったいない。家で勉強を済ませて芸術系の習い事や読書とフィールドワークを充実させたいというもの。
こうなってくると、とどのつまり。子どもに小学校の間に身につけさせておくべきことは何なのかということが重要なテーマとして浮かび上がってくる。
これは筆者がかねがね論って来たことではあるが、到達度試験同様、英数国の能力ということになる。
英語についてはここでは述べない。筆者はとにかくまず日本語に上達することが大切であると考える。
国語力を伸ばすには、良い絵本の読み聞かせ→読書の習慣と漢字の効率的な学習→作文とこの進展という手順になるが、カタカムナとはいかないまでも、日本語古典の一音一音読みを入れて欲しいと思う。
数学算数は、初めに暗算力、パズル力、図形認識能力を充分高めた上で、単位や面積などの知識を与え、高学年になってから本格的に算数の問題に取り組ませるのが良いと思う。
では、そのほかの教科についてはどうなのであろうか。
理科、社会。身の周りの事象や自己を取り巻く社会について知ろうとすることは重要である。でもこれは、本とネットと教材で済ませることも可能だろう。大切なのは好奇心、と「なぜ?」と問う心、そして実験とフィールドワークであろう。でもこの二つは今の学校にさほどする余裕がないものである。子どもたちもそれが何のために行なわれているのか自覚的でないことも多い。これらはこれからは、文科省の方針通り、知識として学ぶのではなく考える力を養うために学ぶのであるから、まず子どもがその気になることが前提になる。それは今の学校の教室で全員同時には不可能なことだろう。といった意味で理科実験教室が流行っているのかもしれない。
音楽、美術といった芸術系はどうだろう。これは本来学校で学ぶはずのものではない。サンバの国ブラジルなどでは学校教育に音楽はない。これらこそは本来これをしたいものが学ぶべきであり、教室で同時に学ばせるのはヘンであり、希望者を放課後にでも集めてやらせるべきだろう。そもそも、一般教育の中で芸術教育を課し、しかもこれに一般同様の成績を付けるとは愚の骨頂である。特に優れたものにその記述を与えれば良いし、そもそも芸術系が優れる子どもは、まずその能力を家庭により育まれているのは明らか。
家庭科はどうであろうか。これこそ家庭で学ばせるべき最たるものであるが、諸処の事情によりそれができず、でも生活のために適切な知識や技術が欲しいと思う者に選択的に学ばせるべきである。
では体育はどうか。考えようによっては、これが子どもに最も大切なことなのであるが、授業で行なう必要がないことは明らかであり、芸術同様、希望者に放課後場所を提供し、そこにトレーナーがいる形が望ましいだろう。
ここまで極めてテキトーながらざっと考察して来たが、これからいくと、どうも学習のために学校に通う意味が、すでにほとんど形骸化してしまっていることにあらためて気づく。
教師の学歴や知識を親が上回ることが多くなったことが教師の「悲劇」の始まりだったが、時代は下って、親が必要な教育内容をあつらえて与えることが可能な段階に入っている。やがてそうした親たちが集まってホームスクールを開くようになり、学校はいよいよ何のためにあるのかわからないところになってしまうと予想される。
学校も文科省も、この事実を噛みしめれば噛みしめるほど、そして変わることのできなかった自分たちを思い知れば知るほど、おのれたちのそれまでの「勉強不足」を嘆くより他はあるまい。まあ「学校」と思わないで「保育機関」と捉えれば良いことなのかもしれない。であるとすると、その管轄は厚労省でも良いことになる。
本日のリベラルアーツは初級。テキストは『論語』(岩波文庫)。