最近子どもたちと話していていよいよ痛感することだが、彼らの人生観は裕福を求めずしてやりたいことをやり続けることをその柱に置く。バブル崩壊以降日本の経済は弱まっているそうだが、それでも彼らは世界有数の豊かな国に育っている。こうした子どもたちに無理矢理熱心に勉強させることは不可能である。
実はいずれこうなることを私ははるか以前に予測していた。
私が家庭教師を始めた1970年代後半、世はいよいよ経済的な高度成長を加速している時だった。それでも、世は今と比べればはるかに貧しかった。まだ一人っ子の方が珍しかった。そして、誰もが勉強して良い学歴を得れば良い収入を得られると信じていた。こうした時代にあっては、子どものやる気を引き出すのは簡単で、成績を確実に上げる厳しい指導が可能だった。
ところが、80年代90年代と経るうちに、勉強を嫌がる子どもや厳しい指導でかえって健全な成長が妨害される子どもが増えてきた。
受験業界では「やる気にさせます」という言葉が広告に使われ、かつての日能研やサピが厳しい受験勉強を売り物にして台頭、それに続いてさらにハードな早稲アカなどが台頭してきた。
いくら受験教育だって、人の子どもを預かって、これを誤った指導により勉強嫌いや能力を低下させるなんてことが許されるはずはない。ましてや「壊し」てしまったのであれば教育者としての資格が全くない。しかし、毎年の合格者数を誇大に発表する広告戦術の陰で、どれほど多くの子どもたちが「犠牲」になって来たかはメディアもあまり俎上に載せることがなかった。
私自身、一体どれほどの数の進学塾で壊された子どもの相談を受けてきたことだろう。子どもは厳しくしつこくしごけば確かにある程度は成績を上げることができる。でも、その後多くの子が自分では勉強できない子になってしまうことが多い。また勉強が完全に嫌になってしまう子も少なからず現れる。大学まで進むことを考えれば、勉強とは自分でやってこそ意味がある。私は、能力が未然な14歳までの子どもには無理矢理勉強させるのは危ないと確信した。
しかし、何も身につけさせずに放っておけば良いというものでもない。また、公立教育のいよいよの低下から、私立進学選択を余儀なくされるご家庭もある。そこで考えたのが、受験にも受験後も役立つことを学ばせることである。これは、私立に進学しても公立に進学しても大丈夫な教育と言い換えても良い。しかもそれは、できるだけ子どもに勉強を強いられた感じを与えないもの出なければならない。こうして、音読、作文、暗算、記憶術を与えた上で、有名中学国語記述解答をして「遊ぶ」というスタイルが出来上がった。そして時代はいよいよ子どもたちの多くが興味があることや楽しいことしか良く学ばない時代に入って行った。
そうこうするうちにさらに時代は変わる。中高一貫公立中の登場である。そして、世を驚かせたのはその入試問題である。「適性審査」と呼ばれるその問題は、文章を細かく正確に読み取り、それについて自分で考察し、その結果を文章記述解答しなければならないという、これまでの入試問題とは一大変換を示すものだった。
今年四月に行われた全国学力試験でも、さらにその傾向は加速された。一般全体の子どもたちの学力水準を見る試験で、モロに記述力が試されたのである。これは文科省が、各学校教師に、「読み書きがしっかりできるように教育しろ」と言っているのも同然のことであり、そして同時に多くの親も子どもに国語記述力がつくように家庭でも努力することが要求されているのである。
ではどうすれば子どもたちに国語記述能力をつけさせることができるのか。そもそもそれを期待する親が国語記述能力を身に付けていない場合はどうするのか。実は、子どもに記述能力を与える基は読書である。その読書を与える基は読み聞かせと音読である。つまり、就学前に、同じ本を繰り返し読み聞かせして、やがて自分でそれが読めるようになる体験が大切であることになる。そしてそのためには、親が上手な読み聞かせができるようになっていることが肝要なのである。
さて、以上はご家庭でのことだったが、では、学校ではどうしたら良いのであろうか?この場合、充分な読み聞かせと音読を経てない子どもたちをどう指導するのかということになろうが、私は断然、小学校1年のクラスで日本語の一音一音の発声と音読を教えるべきであると思う。平仮名やカタカナを一音一音切って読むことは全ての子どもに可能である。そして、この体験の上に全てが構築される。音で意味が分かる。助詞助動詞の使い方が分かる。そこから漢字を覚えさせ、文章を書かせる学習が始められる。私の音読法はやっていて愉しい。元気も出る。アタマも良くなる。でもどうしたら教師たちにそのやり方を教えられるのであろうか。