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大津いじめ隠蔽事件は、その「隠蔽性」ゆえにさらに大きな波紋を投げ掛けている。
一つは、「罪がない」と言う公務員の表明であり、一つは「証拠がない」と言う加害者の親達の「立場」である。
この事件はいずれ裁判に至ると思うが、予め罪を認めない人たちがどれほどより多くの罪を科せられるかの評定がその焦点となろう。
教育コンサルタントとしての独断的妄想をここに記せば、おそらく加害者の家では、豊富な資金で子どもの学歴を獲得するために、厳しく抑圧的な家庭教育が進行していたはずである。おそらくこれまで甘やかされていたのに突然厳しくされることに堪え切れない子どもは、そのストレス解消に「弱者」を対象にすることを選んだ。そしてそれは混迷する学校に「容認」された。生徒たちは「見た」と言っても「止めようとした」とは言わない。教師同様他者の苦しみが分らない人種なのである。
とすると、その罪の直接の中心は、そのストレスを与えた親と、そのストレスを与えることを「仕事」とした「第三者」教育機関になることになる(もちろんそこまでは司直の手は及ばないが)。
現場教師は「クビ」になって当然であるが、その前に教育委員会が潔く総辞職を表明する必要がある。
一人の子どもが死んだのである。教育者としてそれが「平気」であるとは、人間的異常事態である。
そうしなければ新たなる「論理矛盾」が現象する。
集団内で自分の子どもが優れる様になることを画策することが、結果的に弱者の命を奪うことになる。
このことはことの「本質」である。
しかも自ら全く反省しない(表明しない)。
このことの認識は極めて重要である。
これは、東電と現政府と前政府と司法検察同様の「開き直り」の象徴でもある。
「証拠」がなければ決して自らの「過失」を認めない
とは、人を騙して生きるのが賢いという社会の恐ろしき表明である。
資本主義社会に生きることの正確な認識である(社会主義体制下で上手く生きることも同様)。
—自分のことしか考えない。
一つの経済政策が、国民を未曾有の困窮に陥れた。
「ショック•ドクトリン」!。
それを乗り切るのは「反省」ではなくて、自らの主体的対策を講じることではなくて、「シラ」を切ることであった。
現状経済を優先することで、未来教育を捨象する。
「支配」は大衆認識を先行して現象する。
だからこそ、「デモ」があるのでもあろう。
政界も財界も、アメリカ「首脳」も、新聞も、「バカ丸出し」である。
ことは、人間的に正しいことは何かの認識である。
彼らが完全に「後がない」状況に至るまで「開き直る」所存であるのは致し方ない「現状」なのであろう。
ゆえに、末端の「無能」教師だけを責めるのはいただけない。
責められるべきはそのシステムの上に胡座をかき続ける連中である。
でもメディアも「グル」だからそんなことは書かない。
「弱者」になれば、確実に「権力」の惜しみない略奪の対象になる。
これがこの世の中の今後の確実なる方向性なのである。
その中でも生き抜いて「世代交代」ができる人材の育成。
そう考えるところまで戻らなければいつまでも「矛盾」は解消されない。
親となれる子どもたちの育成—それこそが「少子化社会」の国家教育の柱ではないのか。
現在の自分たちが生き残るための「手段」が「現状」であれば、本質的な解明は全く望めないのは当然のことである。
いったい、「いじめ」で子どもが自殺する社会を、国際社会が評価するとは考えられない。
実は、あまりに「利」を追求した「競争原理」は未来的に終わりつつあるというのは、正しい認識といえるのではないだろうか。
とまれ、以上、当然のごとく、「冗談」で書いた。