音読に絡めて (by M・K) | JOKER.松永暢史のブログ

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前回の音読の話にからめて。

前回のブログで、音読の効果の一つとして、言語の身体化について少し触れた。
すると、どなたかがコメントで、文章の読解における、言語リズムの重要性について、指摘されておられていたように思う。
おっしゃるとおり、言語の身体化とは、まさにこの言語リズムの身体的記憶について述べたもので、音読の非常に重要な効果の一つであると私は考える。

唐突だが、日本における言論史的な例を挙げよう。
よく言われることなのだが、日本の文学・思想において、大正期は「型」の喪失した時代であるとされる。「型」とは、生き方の「型」であり、所作、たたずまいの「型」であり、また文章の「型」である。どうしてそうなったかは、色々と歴史的・社会的背景があるのだが、文章に関してだけ言えば、漢文の素読経験の有無が大きいとの指摘がある。漱石や鴎外などの世代は、ほぼ例外なく、幼少期に漢文の素読経験がある。これに対し、白樺派の世代などは、それが無いか、それへの反発が大きかった世代と分類されることが多い。すなわち、漢文的な「型」、あるいは言語リズムが、大正期以降は次第に姿を消していくのである。と同時に、明治期と大正期では(という括り方も乱暴だが)、思想傾向の在り方自体も大きく変わっていく。もちろん、上に書いたように、原因はこれだけでは無いけれども。

つまるところ、やや乱暴に言えば、一つの言語リズムの習得の有無は、人間の思考の在り方自体を変える、一つの要因ともなるのである。これは、ある意味当然かもしれない。思考=ダイアローグ(自己内対話)の客観化であるとすれば、その内面で対話される言語も、一定の言語リズムに従っているはずだからである。極端に言えば、日本語で思考する場合と、英語で思考する場合とでは、論理の構築が異なってくるかもしれない。

等々、音読に絡めて、私の自己内対話(?)の一部を、だらだらと書き記してしまった。
ついでに言っておくと、来週6月15日火曜から月2回、国分寺「カフェ・スロー」にて、主として子供を持つ母親向けの、音読・サイコロ講座を行う予定になっている(NPO法人「自然育児友の会」主催)。
興味のある方は、是非。

※上記した「自然育児友の会」主催の、「カフェ・スロー」における音読・サイコロ講座は、7月からの開始と変更になりました。詳細は以下、「自然育児友の会」まで、お問い合わせください。
http://shizen-ikuji.org/class/class.html