放浪理系女史・ミドリカワです。
本日は昭和の高校物理から。
昭和31年4月発行の『物理新指導書』です。
この年は、高等学校のみ指導要領の改定が行われています。強制力はなく、学校の裁量に任される部分の大きかった最後の指導要領ともいえます。
特別教育活動(ホームルーム活動、生徒会活動、クラブ活動)の時間が規定された、というのが主な改定内容ですが、理科・社会の必須科目数が1から2に変わったというのも大きいです。
そのあとの改定(昭和36年)では、普通科高校に関しては社会3科目、理科4科目(物化生地)必須という恐るべき詰め込みへと移行しますが、このときの『科学技術の向上』への布石を感じる内容もところどころ見られます。
今どきは、理系受験でも理科2科目は結構しんどいといわれるご時世ですが、授業で4科目必須はやはり何度見ても大変だなと。
しかも今みたいな基礎、発展という内容の差もあるわけでもないので(ちなみに昭和36年の4科目必須時代は物理化学はABの区分あり)、文系志望の方々にはさぞ大変だったかと思われます。
『研究独創』の部分は、教師もいち研究者たれという思いを感じます。試行錯誤の部分もあったとは思いますが、新しい時代に向けて、どんどん研究が発展していくなかで何を若い世代に伝えるのかも追い求めていくのに最先端の情報も追い求めていく必要もあったのだろうと思われます。
また、時節を意識した単元の流れのいうのも興味深いものがあります。梅雨や冬の乾燥などが、実験結果に影響することも考えています。
それにしても………当時文部省は電流を最初の単元に持ってきていたのですね。中学でオームの法則は習えども、この本文にあるように内容的に力学の内容も経ないとかなり大変で初っ端から心折れそうなものですが。
………しかしまあ、数式が多いのが一因として物理が難しいと思われることもあるというのは昔からの話だったわけですね(笑)。
まずは物理学がどんな学問かを説いたうえで、学習すべき問題を知り、自分自身で研究計画を立てて自然現象も分類する………簡単そうで寧ろ今どきの大学の教養でやっていきそうなもの。物理現象の研究というあたりも実験、実用経験重視の構成です。
ちなみに、『ファインマン物理学』の第一巻の書き出しも物理学がどんな学問で、他の分野とどう差異がありながら関連しているのかを説かれています。
ミドリカワが個人的に気になるのはこちらの『日常生活に適用する習慣』『職業選択に役立つ知識』および項目8、9の3つの記述です。
日常に用いるために何をしたら良いのかという観点をなかなか現状の授業で伝えられていないように思うからです。考察したうえで、実際にその内容がどう生活に関わっていくのかも本来は生徒自身も見いだせるきっかけを与えられたらとも考えます。そのうえで、ほか科目も踏まえて進路選択まで見据えた展開が望めるのはある意味理想ではあります。
あくまでも科学と生活が連動しているものだというスタンスは崩していません。
だからこそ、知識だけでなく日常の基礎の部分がどれだけ出来上がっていて、そこを土台とした思考を築いていくことが立場を問わず必要になるのではないのでしょうか。
最後の8および9の記述に関しては、ミドリカワ自身とても好きなものです。
科学は万能ではなく、あくまでも現時点で信頼性と再現性が高いものとしての途中経過に過ぎないと思っております。科学で証明されているから万能だとか、いまの科学そのものを根拠として頼りすぎては、現実の人間生活とは却って馴染まない掛け離れた急ぎすぎた解決策や結論に向かって暴走してしまうかもしれません。
妄信、盲信は自らの立ち位置すら見失うことに繋がりかねません。
時として正しいとされていたことすら覆されることもあるのですから、周りの喧騒に踊らされることなく冷静でありたいものです。
そして、まだまだ未知の部分を謙虚に探究する気持ちが現代でも大切にしたいものです。
人間の営みもそこにはあるということを見直すためにも先人が払った努力に敬意を示せたらと思います。科学を進め人類の福祉に貢献………というのもどのような価値観や理想を持っていたのかを時代背景とともに見直すことが必要です。
ミドリカワが科学史を片隅で行っているのも、科学そのものも好きですが、そこにある人間の姿のほうに惹かれているというのもあるのだとつい最近気づいたところです。広く浅くで、興味の赴くままになりますが、これからもお付き合いくださいませ。
………さて、こちらのさらなる指導書の内容は次回に譲るとしましょう。それではまた。



