ものごとを捉えるまえに。 | SPACE BOX

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放浪理系ラテンジャズミュージシャン碧川サヤカ(さかいさやか)のページです。
日々の出来事や思いをつれづれなるままに。科学と日常、音楽と、好きなものを好きなだけ語ります。

放浪理系女史・ミドリカワです。
(画像はネットよりお借り)

三人の脳をデバイスで繋いで(頭蓋骨経由)、意識を共有してテトリスやってみたりした。
………なんてニュースが昨年終盤にあったのだが(ざっくりすぎる)。

これをどう捉えるか。

・ある人は、脅威と捉えるかもしれない。
よくあるのは洗脳とか監視・管理に使われるとか。
・またある人は、朗報と考えるかもしれない。
離れていても同じ景色を共有したり、たとえ動けなくなっても可能になるのかもしれない。コンサートや旅行も体験できるツールとなるかもしれない。


そこにはプラスの感覚もマイナスの感覚も入り交じる。
未知のものなら尚更だ。使い道が未だに感情に至るまで物議を醸すといえば、核(物質宇宙・星の成り立ちを調べる方法としての原子核物理もその応用のひとつだ)などは典型的な例だ。その他にも、環境保護や医療措置など、本当にこれで良いのかという検証を求められることもあるなど、普段イメージしているほど科学は万能とはいえないのだ。
科学的なニュースだって、未知の領域に対する感情やイメージは曖昧だ。もしくは、結局何を言ってるかわからない、といったオチ。

遥かなる昔話ではカメラを向けられて写真を撮られようものなら『魂抜かれるからやめて』とかネタにあったというのに、いまでは誰もが使っている。科学に基づいた文明の利器ですら当初はこの扱い(爆)。

にもかかわらず、科学の万能感という勘違いが起こるのも不思議な話だ。
だからといって、新たな時代の流れのなかで闇雲に拒否することもナンセンスだ。

認識はそれぞれに異なる。
同じものでも角度が異なれば、感じかたも変わる。

そんななかで、シンプルに納得したい、納得させたいとなると………。
数字や科学的なエビデンス(疑わしきものも多々あるが)で、何だか根拠の裏付けがあるように感じてしまうのだろう。

それでも、その出所が何なのか、真実なのかまでを追求する人は少ない。
『テレビでやっていたから』なんてのも強力なツールだ。『1日一個の◯◯が』とか、それだけで売上が変わるのもなんだかな(笑)。

判断に関して、後押しや根拠が欲しいだけなんじゃないか。

根拠に頼りすぎるのも考えものだ。
誰かが言ったから、データがあるから、それだけでは責任を持てない。ツールとしてはアリだが、それだけでは自分の責任を放棄していることにもなりかねない。

感情に走れとは言わないが、自らの直感や知恵・意思で判断を下すことに意識を向けることも大切なのだと思うのだ。

かくいうミドリカワも、昨日のメンターとさせていただいている方からのハガキで、
『自分はどうしたい?』
という問いかけを受けた。

もし、この答えが全く無いままなのであれば、デバイスに繋がれようと繋がれていなかろうと、情報に翻弄されて何処とも解らぬ意識を共有した気になってあてのない根拠を辿るだけではなかろうか。

最早、そのテクノロジーが良いか悪いか以前の問題である。

一番分からないのは自分自身のこと。

まずは、『どうしたい?』という問いかけを小さなものから見つめて選択の精度を上げていくほうが、得体の知れないものごとにただ恐れをなすよりよっぽど生産的でイキイキするのではなかろうか。

無論、クリエイティブに新たな知見やものごとを産み出す方々には大きな敬意を。
明確な目標とライフワークを抱いて前進する方々にも。
羨望の眼差しがいつか、自らの直感とともに現実の成果に向き合える眼となるように。