【本当にタイトル遊びすぎて元のブログの日付がタイトルに入らなかった(^ω^;)】2010年06月18日13:19
沖縄は、小さな養豚農家がたくさんある県です。
母の小さい頃はそれこそ各家庭のトイレには豚が居たそうです。(多分ちょっと大げさ) ※
ただ今回は私の小さい頃のお話。
私が小学校の頃は、うちの近所にも何軒か養豚農家がありました。
当時、豚の飼料代を節約するためでしょう、養豚農家の方は各家庭を回って残飯などを回収していました。 各家庭もまた、それを前提に残飯は一つの容器に集めてとっておいたように思います。
今でこそゴミの減量だとか、リサイクルだとか言っていますが、当時の方がそういう事を考えなくても実践していたわけですね。 ただ、今だと「不衛生だ」とか「変なもの混ぜて出されたら心配だ」などと言われてしまいそうな話ですが、当時はその辺の地域は大体みんな知り合いでしたからね。
ある日、いつものおじさんではなく、きれいなお姉さんが高校の制服を着たまま残飯の回収にやって来ました。 当然、制服には残飯のえげつない臭いが染み付きますから、普通に考えれば着替えてから回収に回ると思います。 それから考えるとその時は何か大変な事情があったのでしょう。 その時はそこまでの理解は出来なかったのですが、子供心に、そのミスマッチに「大変だなあ」と感じて、そのお姉さんが遠くの曲がり角を曲がるまで見送っていたのでした。 (お姉さんにとっては恥ずかしくて止めてほしい行為だったろうと思います。 ごめんなさいm(__)m)
※ 沖縄にいくつもある昔の家屋を再現した所には必ずといって良いほど外にトイレがあり、豚小屋に直結しています。 正確には豚小屋の餌入れの部分にトイレの大が直結しています。
つまり、人間のウンチを豚が食べるわけですね。
そのほかにも残飯や刈り取った草など、豚が食べてくれるものは全て餌として与えていたようです。 この形式は今でも東南アジアを中心としてアジア圏で残っている所が多数あるみたいですね。
母の話だと、ヤマモモなどを種毎飲み込んでトイレに行くと「ポリッポリッ」と種の割れる音が(豚がかじっている)していたそうです。 中には御尻を突っ込みすぎて豚に舐められた子も居たんだとか(^_^;)
母は自分の子供の頃の話として話していますが、時代的には祖母の子供時代の方が合っているような気がするのですが.... それともよほど田舎の方に住んでいたのかな?
沖縄海洋博は、建前の上では「本土復帰した沖縄の経済振興の為」に行われたものでした。
実際にはその規模が大きかったこと、まるっきりそれを請け負うことが出来る規模の沖縄の建設会社もほぼ無かった事もあり、本土大手企業がそのほとんどを受注して、おいしいところを持っていってしまいました。 結局沖縄の企業が潤うはずのかなりの部分が沖縄には落ちてこなかった訳ですね。
さらに、会場入り口へと続く道路には観光客を期待して、ブロックをつんだだけのような作りの御土産物屋や食堂が乱立しました。 その長さ約2km.... さすがに端っこに開業したお店はなに考えているんだと思ったものです。(^_^;)
ところが、直前になって観光バスが会場内に直接入ることになり、会場周辺には一大ゴーストタウンが形成されたのでした。 勝手に期待して勝手にお店を開いた人たちが甘いといえば甘いのですが、会場内のレストランはやたら高いし、まずいし、でも、食事を外に食べに行こうにも一時外出なんて制度がないから高い入場券をまた買わなければいけないとなると、みんな外には出かけません。
今でも、会場跡地周辺では草や木に埋もれた廃虚を見ることが出来ます。「こんな事して何が振興なんだか」と当時思った記憶が有ります。
(実はこの文章は15年ほど前に持っていたホームページに書いた内容で、今ではそのゴーストタウンも潅木に埋まってしまって発掘前のアンコールワットのようになり、道路から見ただけでは解からなくなっているようです。:あ、そうそう、ハブが危ないから興味があっても気軽に分け入らないで下さいね。(^_-)-☆)
ついでに言うと、このとき儲かるからと雨後のたけのこのように建設会社が出来ましたが、この20年の間に老舗の中堅も含めて次々とつぶれているようです。
名護市が本来反対したいけれどヘリポート受け入れを表明していた背景にはこういう事情もあるんですね。 【2015年現在の市長は経済的な事を無視して反対一辺倒な方ですが】
--------
追記
実は沖縄に住んでいた頃は「何処いら辺にハブが居る」って言うのは感覚的に解ったものですが、今は自信がありません。 山遊びしていた子は大抵そういう感覚があったんじゃないかな?
母方のお爺さんがパイナップル農家だった事もあり、山歩きは日常でした。
一般的には、お勧めは水族館です(ジンベイザメやマンタが有名:隣接する水族館のイルカは義足ならぬ義尾で有名になったイルカが居ますね)。
が、私のお勧めは海洋文化館です。
正直、趣味の問題なのであわない人にとっては際限なく詰まらないと思いますが....(^_^;)
海洋博当初からのパビリオンで残っているのが沖縄館とここの二つだけになりました。
インターネットで調べると沖縄館は色々と出てきますが、ここはそんなに引っ掛かりませんが、私としては同伴者が許してくれれば1日中でも居たい場所です。 まあ、趣味じゃなければ10分も持たないと思いますが........(^_^;)
実際にはその規模が大きかったこと、まるっきりそれを請け負うことが出来る規模の沖縄の建設会社もほぼ無かった事もあり、本土大手企業がそのほとんどを受注して、おいしいところを持っていってしまいました。 結局沖縄の企業が潤うはずのかなりの部分が沖縄には落ちてこなかった訳ですね。
さらに、会場入り口へと続く道路には観光客を期待して、ブロックをつんだだけのような作りの御土産物屋や食堂が乱立しました。 その長さ約2km.... さすがに端っこに開業したお店はなに考えているんだと思ったものです。(^_^;)
ところが、直前になって観光バスが会場内に直接入ることになり、会場周辺には一大ゴーストタウンが形成されたのでした。 勝手に期待して勝手にお店を開いた人たちが甘いといえば甘いのですが、会場内のレストランはやたら高いし、まずいし、でも、食事を外に食べに行こうにも一時外出なんて制度がないから高い入場券をまた買わなければいけないとなると、みんな外には出かけません。
今でも、会場跡地周辺では草や木に埋もれた廃虚を見ることが出来ます。「こんな事して何が振興なんだか」と当時思った記憶が有ります。
(実はこの文章は15年ほど前に持っていたホームページに書いた内容で、今ではそのゴーストタウンも潅木に埋まってしまって発掘前のアンコールワットのようになり、道路から見ただけでは解からなくなっているようです。:あ、そうそう、ハブが危ないから興味があっても気軽に分け入らないで下さいね。(^_-)-☆)
ついでに言うと、このとき儲かるからと雨後のたけのこのように建設会社が出来ましたが、この20年の間に老舗の中堅も含めて次々とつぶれているようです。
名護市が本来反対したいけれどヘリポート受け入れを表明していた背景にはこういう事情もあるんですね。 【2015年現在の市長は経済的な事を無視して反対一辺倒な方ですが】
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追記
実は沖縄に住んでいた頃は「何処いら辺にハブが居る」って言うのは感覚的に解ったものですが、今は自信がありません。 山遊びしていた子は大抵そういう感覚があったんじゃないかな?
母方のお爺さんがパイナップル農家だった事もあり、山歩きは日常でした。
一般的には、お勧めは水族館です(ジンベイザメやマンタが有名:隣接する水族館のイルカは義足ならぬ義尾で有名になったイルカが居ますね)。
が、私のお勧めは海洋文化館です。
正直、趣味の問題なのであわない人にとっては際限なく詰まらないと思いますが....(^_^;)
海洋博当初からのパビリオンで残っているのが沖縄館とここの二つだけになりました。
インターネットで調べると沖縄館は色々と出てきますが、ここはそんなに引っ掛かりませんが、私としては同伴者が許してくれれば1日中でも居たい場所です。 まあ、趣味じゃなければ10分も持たないと思いますが........(^_^;)
今回のお話は、少し重いかもしれません。
日本軍が敗走を始めたころ、沖縄の人達も一緒に逃げる事になります。
父の部隊も住民と共に逃げる事になるわけですが、
ある時、森の中から道を横断して反対側の森に抜ける必要がありました。
当然道を横断するという事は米軍に発見されやすい事ですが、そこを横断しなければ逃げ続けることはできません。 そこで、危険の多い先頭としんがりを軍人がする事になり、父たちが斥候をしました。 案の定、反対側の森には侵入者発見用のトラップ(鳴子の様なもの)があり、その配置を確認した後に住民にどう動けば良いのかを説明しながら慎重にそのトラップを超えさせていました。
ところが、声を出して伝える事が出来ないため、後方の住民は、前の住民が安全にわたった事で安心したのか、駆け出してしまったのです。 「はやく渡らなければ発見されてしまう」と言う恐怖に追い立てられていたのは 想像に難くありません。
そのため、トラップが反応し、米軍の機銃掃射がはじまったそうです。
父たちと一緒に先にわたったグループは逃げるのに必死で、後続の人達がどれだけ逃げる事が出来たかは解らなかったそうです。
今回で父の終戦前後のお話は一応終わりです。
何か思い出したら書くかもしれませんが取り敢えず一区切り。
日本軍が敗走を始めたころ、沖縄の人達も一緒に逃げる事になります。
父の部隊も住民と共に逃げる事になるわけですが、
ある時、森の中から道を横断して反対側の森に抜ける必要がありました。
当然道を横断するという事は米軍に発見されやすい事ですが、そこを横断しなければ逃げ続けることはできません。 そこで、危険の多い先頭としんがりを軍人がする事になり、父たちが斥候をしました。 案の定、反対側の森には侵入者発見用のトラップ(鳴子の様なもの)があり、その配置を確認した後に住民にどう動けば良いのかを説明しながら慎重にそのトラップを超えさせていました。
ところが、声を出して伝える事が出来ないため、後方の住民は、前の住民が安全にわたった事で安心したのか、駆け出してしまったのです。 「はやく渡らなければ発見されてしまう」と言う恐怖に追い立てられていたのは 想像に難くありません。
そのため、トラップが反応し、米軍の機銃掃射がはじまったそうです。
父たちと一緒に先にわたったグループは逃げるのに必死で、後続の人達がどれだけ逃げる事が出来たかは解らなかったそうです。
今回で父の終戦前後のお話は一応終わりです。
何か思い出したら書くかもしれませんが取り敢えず一区切り。