<前回より続く>
第二 外國宣敎師に對して(6)
(福沢の青山英和學校での演説)つづき
即ち日本國の輿論は唯西洋の文明に同化せんとするに在るや明に見る可きなり。
我日本人が斯くまでに西洋に同じからんことを熱望すれば、其宗敎に於ても亦應(ま)さに然る可きは自然の勢にして、今後西洋の宗敎が次第に日本國中に傳播するは必ず期して疑を容る可らざるものなり。
西洋風の法律の下に居り、西洋風の商工を營み、西洋風の敎育を受け、西洋風の交際を爲し、西洋風に衣食し、西洋風に家に居り、形體こそ祖先の遺傳なれども、身裏の精神、身外の物、一切萬事西洋文明の風に變化し又變化せんとするものが、獨り宗敎のみ古風に止りて西敎をば一切拒絶せんとするは、人事の勢に於て許さざる所ならん。余が如きは他の日本士人に等しく、生來宗旨の事には至極淡泊にして、其眞味を知らず。之を知らざるが故に之を是非したることもなし。如何なる宗旨にても其主義の正邪を論じて特に之を稱讚し又特に之を誇りたることなしと雖も、唯經世上より觀察を下して利害を考ふるときは、今日の時勢に於て西敎は日本の爲めに大切なりと申す其次第は、西洋の宗旨の漸く我國に入ると同時に、西洋の學藝及び百般の知見も亦入來り、漸く双方の利害を共にし漸く双方の心情を同うし、恰も我凡俗社會を西洋の色に染めて廣く文明の進歩に平坦の道を開くは自然の順序にして、其これに入るの大門こそ西敎なる可ければなり。又この外に世人の左まで注目せざる所にして、余が特に西敎の功徳なりと認むるものは、其道徳の主義を以て日本に寄留する西洋人の言行を緩和するの一事なり。
とて、日本開國の初めに當って西洋人の我國に來るのはたゞ利を得るの目的であって、徳行の君子よりは粗野の者が多かった、又我人民も利のために外國人と交らんとする者は等しく粗野の輩であって、粗野と粗野と相接して其間に衝突を生ずるときには飛んだ間違を惹起さないともいへなかった、
<つづく>
(2024.8.27)