第4011回 『福沢諭吉伝 第四巻』その35<第四十編 宗敎に對する態度――第一 宗敎を信ぜず( | 解体旧書

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 石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<著者が編纂上の困難を冒し、健康上の支障を忍び、然も七年の長きに亙りて、一意専心、刻苦勉勵し、遂に此大作を完成したのは、其の勞誠に多とすべく、吾々の深く感謝する所である>慶應義塾長 林 毅陸

<前回より続く>

 

第四十編 宗敎に對する態度――

第一 宗敎を信ぜず(1)

 

 前編に記した如く「佛法にても耶蘇敎にても孰れにても宜しい、之を引立てゝ多數の民心を和げるやうにする事」は、先生が生涯の中に出來して見たいといはれた三箇條の一である。先生は元來宗敎には甚だ淡泊であって、いづれの宗旨も信ぜられなかった。蓋し宗敎に淡泊なるは日本士族一般の習慣にして、士族の家に生れた先生も亦其例に洩れなかったのであらうけれども、同じ士族の種類にしても中には佛敎に歸依する者があって、殊に婦人には其信者も少なくないが、先生の家にはそれがなかったやうである。「自傳」に母堂のことに就て左の如く語られてゐる。

 又宗敎に就て、近處の老婦人達のやうに普通の信心はないやうに見える。例へば家は眞宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に參詣して阿彌陀様を拝むこと許りは可笑しくてキマリが惡くて出來ぬ」と常に私共に云ひながら、毎月米を袋に入れて寺に持て行て墓參りは缺かしたことはない(其袋は今でも大事に保存してある)。阿彌陀様は拜まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺の和尚は勿論、又私が漢學塾に修業して其塾中に諸國諸宗の書生坊主が居て毎度私處に遊びに來れば、母は悦んで之を取持て馳走でもすると云ふやうな風で、コンナ所を見れば唯佛法が嫌ひでもないやうです。

 又その父兄はどうであったかといふに、父百助は純粹の儒者であるから固より佛敎を信じなかっただあらうし、兄三之助も亦同様であったらう。日本士族の家に普通のことであるけれども、先生の神佛不信仰に至っては最も著しかった。「自傳」に少年のときのことを記して、

 又私の十二三歳の頃と思ふ、兄が何か反故(ほご)を揃へて居る處を私がドタバタ踏んで通った所が、兄が大喝一聲、コリャ待てと酷く叱り付けて、「お前は眼が見えぬか、之を見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫(おくだいらだいぜんたいふ)と御名があるではないか」と大造(たいさう)な權幕だから、「アゝ左様で御在ましたか、私は知らなんだ」と云ふと、「知らんと云ても眼があれば見える筈じゃ、御名を踏むとは如何(どう)云ふ心得である、臣子の道は」と、何か六かしい事を並べて嚴しく叱るから謝らずには居られぬ、「私が誠に惡う御在ましたから堪忍してください」とお辭儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ、「何の事だらう、殿様の頭でも踏みはしなからう、名の書いてある紙を踏んだからって構ふことはなさゝうなものだ」と、甚だ不平で、ソレカラ子供心に獨り思案して、兄さんの云ふやうに殿様の名の書いてある反故を踏んで惡いと云へば、神様の名のある御札(おふだ)を踏んだら如何だらうと思て、人の見ぬ處で御札を踏んで見た所が、何ともない、

 

 <つづく>

 (2024.8.12記)