<前回より続く>
第十二 北京救援の出兵(10)
私は洋學を修めて、其後ドウやら斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬやうにして衣食さへ出來れば大願成就と思て居た處に、又圖らずも王政維新、いよいよ日本國を開て本當の開國となったのは難有い。幕府時代に私の著はした西洋事情なんぞ、出版の時の考には天下にコンなものを讀む人が有るか無いか夫れも分らず、假令ひ讀んだからとて之を日本の實際に試みるなんて固より思ひも寄らぬことで、一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらゐに自から認めて居たものが、世間に流行して實際の役に立つのみか、新政府の勇氣は西洋事情の類ではない、一段も二段も先きに進んで、思切た事を斷行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦以前の大願成就に安じて居られない。
コリャ面白い、此勢に乘じて更に大に西洋文明の空氣を吹込み、全國の人心を根柢から轉覆して、絶遠の東洋に一新文明國を開き、東に日本、西に英國と、相對して後れを取らぬやうになられないものでもないと、茲に第二の誓願を起して、扨身に叶ふ仕事は三寸の舌、一本の筆より何もないから、身體の健康を頼みにして、専ら塾務を務め、又筆を弄び、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著譯です。一方には大勢の學生を敎育して又演説などして所思を傳へ、又一方には著書飜譯、随分忙しい事でしたが、是れも所謂萬分の一を勉める氣でせう。
所で顧みて世の中を見れば堪へ難いことも多いやうだが、一國全體の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、數年の後その形に顯はれたるは日清戰爭など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも云ひやうがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アゝ見せて遣りたいと、毎度私は泣きました。實を申せば日清戰爭何でもない、唯是れ日本の外交の序開きでこそあれ、ソレほど喜ぶ譯けもないが、其時の情に迫まれば夢中にならずには居られない。
即ち日清戰爭はたゞこれ外交の序開きとして、更に大に爲すところあらんとして、老後に至るまで大に努められたのである。
<つづく>
(2024.7.6記)