第3972回 『福沢諭吉伝 第三巻』その620<第十二 北京救援の出兵(8)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第十二 北京救援の出兵(8)

 

 (著者草稿「時事新報」社説)つづき

 蓋し日本兵が第一に優勢なる敵の砲臺を占領したるは、敢て列國兵に卒先せしに非ず、或は聯合軍の作戰計畫に於て、日本兵は自から戰列の先頭に立つの順序なりしやも知る可らず、又は地勢其他の都合よりして最先に砲臺に近づく便利なるの地位に在りたるやも知る可らず、左れば我兵が先登第一の功を博したるは自から時の運にして敢て誇るに足らずと雖も、兎に角に我陸戰隊が列國の聯合兵に合して背面の攻撃に當り、與に共に死傷を顧みずして砲臺陥落の功を収め、他に對して一歩も後れを取らざりしは實際の事實にして、明に軍人たるの本分を盡くしたるものと云ふ可し。

 或は砲臺の守備兵は例の支那兵なり、之を占領するに何かあらんなど云はんかなれども、實際に列國の聯合艦隊は六時間の砲撃を繼續して、英艦の如き非常なる損害を蒙りたるのみならず、背面攻撃の聯合陸戰隊中にも露兵の如き死傷甚だ多しと云ふ、以て其攻撃の容易ならざりしを見る可し。要するに日本兵が少なくも列國同様の働を爲したるは疑ふ可からざる所にして、只この一事にても我輩の只管感謝する所なり。實際には萬々あり得べからざることなれども、若し萬々一の間違にも列國の聯合兵が奮て勇戰したる其中に、日本兵のみ進むこと能はざりしか、又は敗北して散々の失態を演じたらんには、單に軍人の恥辱に止まらず實に日本國の名折れにして、最早や世界の人に對して顔を合はするの面目はある可らず、斷じて忍ぶ可らざる所なるに、然るに今囘の擧動を見れば、我陸戰隊は列國兵の間に些の後れも取らざるのみか、先登第一の功を奏したりと云ふ。

 先登の功は或は時の運なりとするも、勇戰奮闘他に對して一歩も劣る所なかりしは取りも直さず日本軍人平生の素養を現はし、世界に對し日本國の重きを成したるものにして、是に於てか戰死者も死して餘榮ありと云ふ可し。立國以來始めて列國兵と事を共にして日本の輕重を定む可き此大切なる戰場に、平素よりの心掛とは云ひながら、服部中佐を始めとして部下の人々が能くも一命を棄てゝ日本軍の眞相を世界列國人の眼前に示したるは、實に空前絶後の偉勲にして眞實國の爲めに謝せざるを得ず。我輩は深く其人々の死を悲しむと同時に、國民全體と共に永く其偉勲を記憶せんと欲するものなり(明治三十三年六月二十一日「時事新報」社説)

 

 <つづく>

 (2024.7.4記)