第3967回 『福沢諭吉伝 第三巻』その615<第十二 北京救援の出兵(3)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第十二 北京救援の出兵(3)

 

 (著者草稿「時事新報」社説)つづき

 我輩が連日大聲疾呼して、何は兎もあれ我國より大兵を出し出來得る限りの速度を以て北京の路を開き、列國人を危急の中より救出す可しと論じたる所以にして、今日は唯人道の爲めに文明國の本分を盡すの一事あるのみ、他は敢て問ふ所に非ざるなり。思うふに此事たる單に我輩一個の希望に止まらず、國民全體の希望、否な世界列國人の希望にして、何人も一の不の字※1を唱ふるものはある可らず。果して然り、我政府に於てもいよいよ大兵の派遣に決し、其部隊は昨今既に出征の途に上りつゝありと云ふ。

 此上は風馳※2電掣※3、直に北京を指して片時も早く目的を達せんことを祈るのみ。或は外國人の中には日本の出兵兎角遲々たるを怪しみ、若しも北京にして救はれざることならんには、其責は日本に歸す可しなど唱ふるものもあるよし。危急切迫、人心顚倒※4の場合には、覺えず斯る繰言を發するも無理なき次第にして、我輩とても出兵を急ぐの情に於ては敢て外國人に異ならず。即ち此程來口を放て其事を唱道したる所以なれども、更らに一歩を轉じ當局者の身と爲りて考ふるときは、いよいよ大兵派遣の決斷を斷ずるに至りし其苦心慘擔の事情は、局外人の容易に窺ひ知る可らざるものありしならん。

 今囘の事變は實に豫想外の成行にして、何人も今日あるを前見したるものはなかる可し。最初の間は單に義和團と稱する匪徒の擾亂にして、如何に北京政府の無力を以てするも、いよいよ鎮壓に決するときは格別の大事にも至らざる可しとは、居留外人の一般に信じたる所にして、公使館の保護の如き僅々の水兵を以て安心したることなるに、何ぞ圖らん實際の成行は想像の外に出でゝ、外國人は清廷輦轂の下※5に在りながら、何時しか敵兵重圍の中に陥りて俎上の肉たるを發見し、始めて驚きたる次第にして、是に於てか救援隊の發遣と爲り、太沽※6の砲撃と爲り、天津の交戰と爲り、事體ますます重大なるを致したる其間の變化は、實に電光石火の有様にして、何人も豫想外の奇變に驚きたることならんなれども、此奇變に處する我國の態度は、些かも列國の聯合運動に前後したることなく、北京の救援隊に我水兵の加はりたるを始めとして、太沽砲臺の占領には我陸戰隊最も力め、又天津の交戰にも海陸兵共に列國軍と事を共にして清兵に當りたるが如き、日本が文明聯合の一國として力を致し、今日までの變化に應じて列國と進退を同うし、飽くまでも共同一致の態度を執りたるは外國人の明に認むる所なる可し。

 

 ※1■不の字:(ふのじ)よくないこと。うまくいかないこと

 ※2■風馳:(ふうち)風のように速く走ること

 ※3電掣:(でんせい)電光がひらめく

 ※4顚倒:(てんとう 顛倒)さかさまになること(「主客――」「本末――」)

 ※5■輦轂の下:(れんこくのもと)皇居のある地のこと(「輦轂」は天子の乗り物のことで、天子の乗る車の下の意から)

 ※6■太沽:(たいこ)天津から海河に沿って南東に下って渤海に至った河口(大太沽)地域

 

 <つづく>

 (2024.6.29記)