第3965回 『福沢諭吉伝 第三巻』その613<第十二 北京救援の出兵(1)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第十二 北京救援の出兵(1)

 

 明治三十三年北清地方に義和團の騒亂が勃發して、在北京の各公使館は公使幷に館員の妻子共に、團匪※1及び支那官兵の重圍※2中に陥った。即ち北清事件と稱するものである。當時公使館には護衞兵がなかったので、急を聞いて天津より入京した少數の陸戰隊と各公使館員及び館内に在った男子が有り合はせの小銃刀劍等を執って公使館區域の一部に立籠り力を合せて必死に防禦せしも、日夜の攻撃に遭ふて死傷少なからず、加ふるに食糧缺乏して危急旦夕に迫り※3、全員を擧げて何時無殘の運命を見るやも計られない有様となった。

 此警報の傳はるや各國共に非常に驚駭※4し、其東洋艦隊を直隷※5灣に集めたけれども、天津北京間の鐵道は破壊せられ、優勢なる支那兵は沿道の要所を固めて道を塞ぎつゝあり、艦隊から上陸した陸戰隊も、北京に向ふことが出來ないので、各國は東洋所屬地駐屯の軍隊を呼び寄せることゝし、或は本國からも陸兵を派遣せんとしたるも、小部隊の兵力にては支那兵を突破して北京に入るの望みはない、ところが北京の形勢は甚だ急を告げ或は各國公使は一人も殘らず虐殺せられたとの風説さへも傳はって危急切迫の此場合に、北京救援の必要に應ずるだけの兵力を即時に派遣し得る地位に在るものは獨り我日本のみである。

 然るに我政府の態度は頗る緩慢にして眼前に此形勢を眺めながら決斷に躊躇するの有様であった。「時事新報」は當初から出兵論を提唱して政府の決斷を勸告したが、政府は容易に動く様子のないばかりか、世間も案外冷靜にして恰もこれを對岸の火災視する觀があった。

 

 ※1■團匪:(だんぴ 団匪)義和団の異称。集団をなす匪賊

 ※2■重圍:(じゅうい ちょうい 重囲)いく重にも取り囲むこと。その囲み

 ※3■旦夕に迫る:(たんせきにせまる)今日の夕方か明朝かというほど事態がさしせまっていること

 ※4■驚駭:(きょうがい)非常に驚くことや恐れること。驚愕

 ※5■直隷:(ちょくれい)明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した地方行政区画

 

 <つづく>

 (2024.6.27記)