第3959回 『福沢諭吉伝 第三巻』その607<第十一 海軍擴張と日英同盟(3)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く

 

第十一 海軍擴張と日英同盟(3)

 

 さなきだに海軍擴張は從來先生が熱心に主張せられたに拘らず、海軍擴張は從來先生が熱心に主張せられたに拘らず、官民共に國内の政爭に囚はれて此重大事を等閑に附し去り、更に第二の敵に會せんとする危機に際しては手も足も出ず、たゞ他に屈するの外なき始末であった。此眼前の實物敎訓に對しては何人も從來の怠慢を悔いたであらう。茲に於て先生が戰後第一に口を放って高唱せられたのは海軍擴張論にして、「時事新報」は其全力を此一事に注いだのである。其頃先生が或席で海軍の有力者に面會せられたとき、「時事新報の御盡力は非常なもので實に感謝に堪へない。何分よろしくお頼み申す」と述べられたるに對し、先生は笑って「世間では時事新報を海軍の御用新聞だといふ者があるさうだが、海軍の一事はお頼みがなくとも國家のために此方から御用を勤めてゐるのである」と答へられたといふことである。又先生が山本權兵衞に面會して海軍の話を聞かれた事に就て、木村浩吉は左の如く語った。

 年月は正確に記憶してゐませんが、日清戦争後、私は大尉で軍令部に勤めてゐて、しばしば交詢社へ行ってゐました。或日先生から「海軍部内の不公平といふことが頻りにやかましくいはれてゐるが、一體どういふ有様であるか」とのお尋ねでありましたから、私は當時の海軍部内に於ける不公平の甚だしいことを述べ「此不公平の除かれぬ限り、日本海軍の發達は望まれません」と申しますと、先生は「それでは、いつになったら此弊害がなくなると思ふか」と重ねて問はれましたので、「先づ、現に軍務局長をしてゐる山本權兵衞大佐、此人が海軍大臣になったらば至極公平に行くやうになるでせう」と答へましたところ、「それでは其人に會って見たいものだ」といはれ、私に其交渉をしろとの仰せでしたから、山本氏に其事を傳へますと、山本氏も大に喜んで、是非お目にかゝりたいといふことでした。

 そこで「あなたは後輩であるから、面會時間や場所などに就ては、あなたから先生に御都合を問合せていたゞきたい」といひますと、山本氏は「よろしい、承知した」といふので、私は其後の事に就ては、いつどんな風にして會はれたのか知りませんでしたが、其後先生幷に山本氏にそれぞれ感想を尋ねましたところ、互に言葉を極めて賞讃してゐました。もともと此會見は先生が海軍の事を懸念せられた餘りに、私に對して種々のお尋ねがあり、私から山本氏の人物を申上げたのが動機で、先生が會って見たいといひ出されたのであります。

 

 ※■さなきだに:ただでさえ、そうでなくても

(「さ」副詞 そのように)

(「なき」形容詞 ない、いない、存在しない)

(「だに」副動詞 せめて~だけでも、~でさえ)

 

 <つづく>

 (2024.6.21記)