<前回より続く>
第十 李鴻章遭難と三國干渉(6)
(福沢の「時事新報」社説)つづき
自から感じ自から思ふは銘々の自由にして如何ともす可らずと雖も、只目下の場合に人々の相警(いまし)めて呉れ呉れも注意す可きは、急に迫りて漫に立腹せざるの一事なり。兼て申す如く今日の外交には一點の義理人情もなきのみか、あるとあらゆる不義理不人情を極めて、詰る所は双方唯腕力のみと云ふ斯る淺ましき交際の中に居ながら、一旦の不平に前後を忘れ漫に立腹して不隱の擧動もあらんには、單に自家の未熟を表するのみに止まらず、之が爲めに事を破りて無限の憾を遺すことある可し。
喩へば比隣※相對して東家に曲を蒙りたりとせんに、主人は其曲を伸ばさんとして經營慘憺(さんたん)、大に魂膽を凝らしつゝある最中、東家の少年が西隣の家人を門前に要して之を打擲するが如き無謀の擧動を演じたらんには、波瀾新に生じて、主人の胸中無量無限の計畫も爲めに全く水泡に歸して、極を伸ばすの機會を失ふのみか、却て先方に屈強の口實を與へてますます自から屈せざるを得ざるに至る可し。
畢竟その屈伸の如何は時日と辛勞との問題にして、短氣に切迫して漫に立腹するは只事を破るに過ぎざることなれば、假令ひ不平不滿足は實際堪へ難き程のものあるも、決して口に言はず又顔色にも現はさず、深く之を呑んで腹の底に藏め、悠々閑々、外に一點の痕跡を示さずして内に大に警め、誠意誠心、實際の實を勉めて怠らざる其中には、時日の經過と共に我恃む所の基礎を固くし、數年を出でずして必ず機會の到来せんこと我輩の誓て斷言する所なり(明治二十八年五月七日「時事新報」社説)
※■比隣:(ひりん)軒を並べる隣家。近隣
<つづく>
(2024.6.16記)