第3949回 『福沢諭吉伝 第三巻』その596<第十 李鴻章遭難と三國干渉(1)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第十 李鴻章遭難と三國干渉(1)

 

 戰局は連戰連勝、破竹の勢を以て進行し、旅順は二十七年十一月に陥落し、威海衞は翌二十八年一月に我手に落ち、我軍はいよいよ全力を擧げて天津北京に進撃するの段取となった。これより先き支那政府は頻りに局外國に泣きついて調停仲裁を依頼したけれども、固より目的を達しないで、二十八年一月、張蔭桓、邵友濂の二人を講和使として來朝せしめ廣島に於て我當局者と會見したところ、其委任状の不備なりしため拒絶せられて空しく歸國した。茲に於て李鴻章がいよいよ全權使節として同三月來朝し、馬關に於て講和談判を開くことゝなった。

 彼れは我全權と最初の會見に於て先づ休戰の要求を提出したが、我條件の嚴なるを以てこれを撤囘し、翌日より談判に取掛ることを約して其旅館に歸る途中、小山六之助なる凶漢の狙撃に遭ったのである(三月二十四日)。此不慮の出來事に對する我官民一般の痛歎驚愕は非常にして、ために或は談判の上にも影響を及ぼさんとするの懸念があった。此時先生は李の遭難は實に氣の毒の至りで飽くまでも同情すべき出來事であるが、私情と公義とは自から別である、これに同情するの餘り日本人の義侠心など云々して、苟(かりそ)めにも談判の手に緩みを生ずることもあらんか、それこそ我軍人が身命を賭して連戰連勝、今日まで(か)ち得たる成跡を皆無にして功を一簀に缺き、國家百年の大害を來すものである、容易ならざる次第なりとし、世人が驚愕狼狽殆ど爲すところを知らざる其際に「私の小義侠に醉ふて公の大事を誤る勿れ」と喝破して當局者に警告せられた。

  私の小義侠に醉ふて公の大事を誤る勿れ

 馬關の事變は實に意外千萬のことにして、我日本國の朝野共に悲しむ所なれども、人間世界に不時の災難は之を避くるに由なし、即ち自然に定まる天命なれば、其災に罹りたる人に對しては、傍より哀悼の情を表して、災の輕からんことを祈り、災の速に去らんことを勉むるのみ、人力の及ぶ所は唯これを限りとして、他に工風はある可らず。

 

 ※■功を一簀に缺く:(こうをいっきにかく)積み上げてきた成果や功績が、最後の些細なものが足らずに未完成となり台無しなること(「一簀」とは、土木作業に使用するモッコに盛り付けられた土(モッコ一杯分の土)という意味)

 

 <つづく>

 (2024.6.11記)