<前回より続く>
第九 旅順虐殺の辨明(2)
(著者起草「時事新報」社説)
例えば牙山の如き、平壌の如き、只敵を打拂ひたるのみにして之を鏖(みなごろし)にせざるのみか、軍門に降伏したるもの若しくは捕に就きたるものゝ如きは、國内安全の地に護送して衣食の自由を得せしめ、又負傷者は病院に入れて治療を加へしむる等、其取扱は毫も自國の兵士を遇するに異ならず、其待遇の厚きは敵人さへも感激する所にして、何人も我日本國の寬仁大度を疑ふものはある可らず。然るに今囘旅順の戰爭に限りて人を屠戮したりと云ふか、本年夏中より連戰連勝、日本國人が果して無益の殺生を樂しむものならんには、殺生の機會は一度ならず二度ならず、勝手次第に樂しみたる筈なるに、曾て其事なくして、今囘旅順に於て始めて云々とは抑も亦前後辻褄の合はぬ話ならずや。
然りと雖も旅順の戰爭に敵の死する者聊か多かりしは事實なるが故に、外國人等は唯その數を計へて容易に説を作すことならんなれども、是れは自から止むを得ざるの事情に出でゝ傍觀者の得て知らざる所のものなり。今度旅順の砲臺は支那兵が死力を竭(つく)して守りたる所にして、實に一萬五六千の兵力あり。我兵の奮戰これを陥るや、彼等の多數は遁れて四方に散じ、其逃げ後れたる者共は市街の民家に濫入して衣服を偸(ぬす)み取り、兵士の服裝を脱して之を着替へ、恰も普通の市民の如くに裝ひながら、其兵器をば捨てずして處々に潛伏し、我兵の進んで市街に入るや、隱れながら發砲して抵抗を試み、甚だ危險なるより、止むを得ず家屋内を捜索して變裝の兵士を見出し殺戮に及びたることなり。
元來支那人が信義を口にして實際に不信不義を恥とせざるは實に言語の外にして、迚も普通の人間を以て見る可き人民に非ず。例へば牙山の戰爭に我軍は一撃の下に彼を破り、最早や戰闘力を失ひたればとて之を大目に見て別に追窮もせず、其逃走を自由ならしめたるに、何ぞ圖らん彼等は卑怯にも平壌に走りて再び我軍に抵抗したり。又平壌の役にも戰爭半ばにして彼兵は白旗を城門に掲げて休戰を乞ひたるにぞ、日本兵は之を諾して發砲を止めたるに、彼は兵器の取纏めを口實として城の明渡を延引し、夜中に及び約束に背て遁げ去りながら、更に九連城に據りて又もや我軍と戰ひたり。
<つづく>
(2024.6.6記)