第3942回 『福沢諭吉伝 第三巻』その590<第八 戰時の覺悟(10)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第八 戰時の覺悟(10)

 

 先生は漫言に於てもかゝる筆法を以て支那人の懦弱無氣力を飜弄(ほんろう)罵倒し、間接に世間の人氣を引立つる趣向であった。それから黄海々戰の捷報が達したとき次の如き狂詩を作られた。

    丁汝昌

 假令往生       無

    (ワウゼウスルモ)        (トガムル)

自業自得自然酬

     (シゼンノムクヒ)

 囘首十年以前事

 長崎亂暴覺居不

                    (オボエテヰルヤイナヤ)

 

    ヘンネッケン

 變挺來是變熱拳

   (ヘンテコライハコレヘンネツケン)

 無レ   敢   最後  海洋邊

   (アヘ) (ナキ) (サイゴ)

 古筒賣込腹膨處

   (フルヅゝウリコンデハラフクルゝトコロ)

 百日説法一發煙

 

    李鴻章

 黄袍雀帽剝奪頻

 向寒之砌 御察申

   (オサッシモウス)

 重々業晒君諦給

 (ヂウヂウノゴウサラシキミアキラメタマヘ)

 不幸長命亦因縁

 これは當時上海の新聞紙に北洋水師提督丁汝昌及び最近同水師副提督となったドイツ人ハンネッケンは此海戰に戰死したとの報を掲げたといふ報道が最初に傳ったときのことである(兩人の戰死は誤報であった)。ハンネッケンはドイツの技術家で支那に雇はれて旅順の砲臺建造の設計をなし、支那が高陞號(こうしょうごう)で兵を牙山に送るとき彼は同船に乘組み居り、我浪速艦のために撃沈せられて海に溺れるしも海岸に泳ぎ着いて命を助かり、其後北洋艦隊に乘組んだが、兵器類を支那に賣り込んで大に儲けたとの噂があり、又李鴻章が重ね重ねの失敗のため北京政府から譴責を蒙り、豫て恩賜の黄馬褂※1及び三眼花翕※2を取上げられたといふ報道もあったので、戯に右の狂詩を作られたのである。漫言といひ狂詩といひ筆端の餘戯亦その意氣を見るべきである。

 

 ※1■黄馬褂:(こうばかい)黄色の馬褂。清朝で文武官の特に功労あるもの、及び侍衛大臣に賜るもの

 ※2■三眼花翕:(不明)(「翕」は原文では「合」偏に羽」)

 

 <つづく>

 (2024.6.4記)