<前回より続く>
第八 戰時の覺悟(6)
左の梅田又八宛書状の一節
(前略)近來は日清交戰の沙汰にて、都でも唯その話のみ。先づ今日までの處にては我勝利なれども、この上如何可相成哉、最早斯くなる上は唯進むの一法あるのみ。國民一般都て私を忘れて國に報ずるの時と被存、人事に淡泊なる老生にても今度は默々に不忍、身分相應に力を盡す覺悟に御座候(下略)
と、郷里中津の知友山口廣江に寄せた左の書状
酷寒の時節皆々様御揃益御清安奉拜賀候。其後は打絶御無音のみ。實は去年夏以來外戰の一條、直接の關係は無之候得共何か忙しき思ひを爲して右の次第、あしからず御海容被下度候。實に今度の師(いくさ)は空前の一大快事、人間壽命あればこそ此活劇を見聞致候義、小生抔壯年の時より洋學に入て、随分苦しき目に逢ふたることもあり、世間の毀譽に拘はらず勝手次第に放言して、古學者流の役に立たぬことを説き、立國の大本は唯西洋流の文明主義に在るのみと、長き歳月の間喋々して止まざるも自から期する所はあれども、迚も生涯の中に實境に逢ふことはなかるべしと思ひしに、何ぞ料らん、唯今眼前に此盛事を見て、今や隣國の支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす、畢生の愉快、實以て望外の仕合に存候。戰爭も今より尚長く相成候事ならん、随て兵も多く、又随て軍費も大なることならんと存候得共、如何なる艱難に逢ふも中途にて止むべきにあらず、軍費の如きは國民が眞實赤裸になるまで厭ひ不申、弊家などにては疾くより其覺悟に罷在候。
中津邊の人氣も同様の事ならんと推察致候得共、兎角引込思案に陥らざるやう、精々御説諭奉祈候。右寒中の御尋問旁申上度、對人候紙片は新年の詩なり、御一笑に供し候。匆々頓首。
二十八年一月十七日 諭吉
出口先生
侍史
とは、軍費に關する自身の覺悟を述べられたるもの。又出征中の塾員海軍大佐(後に少將)鏑木誠に宛てた左の書状
御軍役御苦勞千萬奉存候。次第に秋冬風浪の時節に相成、別しての御事、今後の景況如何可相成哉。唯々勇を鼓して御奮戰抜群の御功名を祈るのみ。過日海洋島の劇戰勝利など實に愉快にて不堪、何卒破竹の勢を示して百戰百勝、目出度凱旋を奉待候。國内の人心は一致協同、四千萬の人民は四千萬の骨肉に異ならず、日夜戰地を望んで軍人の勞を謝するのみ。思付のまゝ今日小包郵便に託し、つくだにと甘納豆少し差上候やう家人へ申付置候。屆候はゞ御受納奉願候。右御見舞まで申上度、餘は凱陣萬歳の時を期し候。匆々頓首。
二十七年十月五日 諭吉
鏑木誠 様
几下
<つづく>
(2024.5.31記)