第3937回 『福沢諭吉伝 第三巻』その585<第八 戰時の覺悟(5)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第八 戰時の覺悟(5)

 

 固より一面識もない人であったが、其遺族の事情を聞いて同情に堪へず、即座に慰問に及ばれたのである。又沼津靜浦の保養館に滯在中、村の若者等が毎夜村社の八幡宮へ跣足(はだし)參りをするのを見て、左の書状に蠟燭代を添へて贈られた。

 兩三日來當館養生中、毎夜村の若者等が打揃ふて手々に提灯を携へ館の門前を疾走して村社八幡宮へ徒跣の勇ましき様を見物して、其祈願の趣意を聞けば、今度當村より徴兵現役の者は勿論、豫備後備の召集に應じて從軍したる者少なからずゆゑ、其者等が戰場に於て武運長久、天晴の功名手柄を燿かし、日本國の大勝利を以て目出度凱陣するやうにと、朋輩の好に又報國の爲めに斯くは毎日の勞働を終りし後に氏神に祈るものなりと云ふ。其友情誠意の厚き、實に世の中の手本ともなる可き擧動なり。

 抑も今度日清の戰は我大日本國開闢以來吾々の遠き先祖も曾て知らざる所の大事件にして、事いよいよ切迫の場合に至れば國民軍の催ほしもある可し。其時には今の若者等は、徒跣參の勇氣を移して支那に討入ることならん、誠に頼母しき次第にて、之を思へば只感涙の外なく、余も參詣の仲間に入り度きほどのことなれども、年老して身に叶はず、就ては輕少ながら蝋燭の料として金五圓寄附致し度、參詣のとき提灯を照らすの一助にもならば本懐の至に候也。

  明治二十七年九月八日

             靜浦保養館寓

                福澤諭吉

   靜浦字志下村

       若者中

 先生は毎夜門前に出てこれを見物し、涙を浮べて喜んでゐられたといふことである。それから軍資募集發起のとき、岐阜の塾員等に宛て其盡力を喜ばれた左の如き書状もある。

 本月廿一日の華翰致拜見候。陳ば今度日清事件に付軍資義捐に御盡力可被成旨、誠に御同感の御事、これを承りても欣喜に不堪、何卒廣く地方の人々を勸誘して非常の奮發あるやう致度、田舎の地にて現金に困るならば米にても麥にても不苦、唯國民の誠意誠心を表するのみ。一髪千釣を繋げばこそ危けれども、一髪千釣を繋げば甚だ安し。吾々の目的は全国四千萬の協力を以て、國の榮譽を全ふせんとするに在るのみ。兎に角に此處の要は内亂と外戰とは全く性質を殊にするとの一義を了解すること肝心の事と存候。

 將又報國會云々は、同會も近日軍事公債の爲め躊躇する姿に相成候に付、老生は同會の如何に拘はらず、時事新報を以て醵集の事に着手致し居候。全體資金を集るに、何會何社など申區別は無之の沙汰なり、何れの道を經て何れの手よりするも、唯國民の誠を表するまでの義と存候。則老生の所見は別紙時事新報の切抜差上候間御一覽可被下候。右拜答まで申上度、匆々頓首。

  八月廿六日         諭吉

   戸田春三様

   棚橋新策様

   渡邊祝三様

 

 ※■一髪千釣:(いっぱつせんきん 一髪千鈞?)非常に危険なこと。きわめて無理なことのたとえ(「一本の髪の毛で千鈞もの重きものを引く」意)

 

 <つづく>

 (2024.5.30記)