第3934回 『福沢諭吉伝 第三巻』その582<第八 戰時の覺悟(2)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第八 戰時の覺悟(2)

 

  第一 官民共に政治上の恩讐を忘るゝ事

政治上に意見を異にするは人間の持前にして、世界各國皆然らざるなきも、近年我國に於ては最も甚しく、相互に容るゝこと能はずして讎敵※1も啻ならざるものがある。平時に於ても極端なる喧嘩騒動は面白くないところに、今度の大事件に當り何としてこれを許すべきや、今日の場合に尚ほ政治上の友敵を分ち、甚しきは獨り自から功名手柄を専らにせんとし、他の一方はこれを妨げんとするの言行を演じ、直接間接に大事の進行に影響するが如きことあらば、實に相濟まざる次第ではないか。政府は大に胸襟を開いて部外の長老を容れ、長老輩も亦難題を言はずして素直に政府に入るが宜しい。又民間の各政黨も其平生の持論如何に拘らず、大事の終結までは方針を共にして向うところを同ふせねばならぬ。

  第二 日本臣民は事の終局に至るま

     で慎んで政府の政略を非難す

     べからざる事

 立憲政治の治下、言論自由の世の中に於て、政府の得失を評論するも、政治の改良を促すの刺衝※2ともなるものであるから、施政の非を擧ぐるに憚ることはないけれども、今日は則ち然らず、戰爭に關する軍略は勿論、これに附帶する外交略に至るまで、都て現政府の手に托して一切萬事秘密を要するが故に、傍より喙を容るべからざるのみか、萬般の施設皆宜しきを得たものとして一も二もなく贊成すべきである。

 或は天下の論者が平生の筆法を以て綿密に議論したらば、我出師※3の時節又は其用意の如何に就て多少の苦情もあらうけれども、既に今日となってはこれを論じて無益のみでなく、我不利を擧げて人心を沮喪※4せしむるの不利こそあれば、いかなる事情に迫るも謹んで默して當局者の自由を許し、其一擧一動もこれを贊成して陰に陽に國民の身に叶ふだけの助力を與へねばならぬ。

 

 ※1■讎敵:(しゅうてき)うらみのある相手。仇敵。あだ(=讐敵)

 ※2■刺衝:(ししょう)突き刺すこと。刺激すること

 ※3■出師:(すいし)軍隊を繰り出すこと。出兵

 ※4■沮喪:(そそう)気力がくじけてすっかり元気をなくすこと

 

<つづく>

(2024.5.27記)