<前回より続く>
第五 我國の朝鮮出兵(3)
又大鳥圭介は當時の事情を左の如く述べてゐる。
(前略)外務省に出頭し陸奥大臣に面會すると、陸奥も、病中で氣の毒だが今度は一つ骨を折って貰ひたいと云はれる。陸奥の意向を叩くと、期せずして我輩の見る所と一致し、此機會を以て支那を遣付ようと云ふのである。我輩は雀躍して喜び、直ちに軍艦八重山に搭じて横須賀を出發したが、此時見送りに來て呉れた陸奥に向って、今度は生還を期さないよと云ふと、陸奥は熱涙を揮(ふる)って、君が死ねば僕が確かに骨を拾ふ、緊り遣って呉れ給へと云はれた(明治四十三年八月二十四日「時事新報」)
これに據ると、外務幷に陸軍の當局者は、此機會に支那以上の兵數を派遣して彼を制壓し、以て從來の失敗を囘復せんとする心算であったが、伊藤總理は尚ほ平和政策を執って無事の終結を望み、一旅團の兵數を二千人ぐらゐと思ふて出兵に同意したので、最初から大決心のなかったことが知られるのである。
我混成旅團の大兵が續々朝鮮に到着するや支那は大に驚き、東學黨の亂は既に鎮靜したから兩國共に撤兵しようと頻りに運動を試みたけれども、兩國の軍隊は既に兩々相對立して既に騎虎の勢※1を成してしまった。茲に於てか我政府は支那の撤兵要求を拒絶すると共に、曾て先生の論ぜられた通りの方策を執り、日支兩國共同して朝鮮の弊政※2改革に着手せんことを支那政府に提議したところ、支那はこれを拒絶したので、單獨に朝鮮政府に對して改革の實行を勸告したるに、一旦承諾したるも更にこれを拒絶した。
此時「時事新報」は左の如く論じた。
支那朝鮮兩國に向て直に戰を開く可し
今囘我國が朝鮮の内政を改革せんとするに就ては、歐米の諸外國一として異議を唱ふるものなく、現に或國の如きは「此度の改革事業は何卒充分に實行せられんことを希望す」との旨を我政府に申來りし程の次第なりと云へば、日本は此際宜しく文明人道の保護者を以て自から任じ、誰憚る所なく思ふ存分に改革の實を擧るの覚悟ありて然るべきことなり。
※1■:騎虎の勢(きこのいきおい)勢いやはずみがついてしまったら途中でやめられないことのたとえ(「騎虎」は、人が虎に乗っている状態を表す)
※2■:弊政:(へいせい)弊害の多い政治。悪政
<つづく>
(2024.5.6記)