<前回より続く>
第三 一大英斷を要す(5)
抑も從來の關係より云へば、日本は朝鮮の開國を促したる第一着手の國にして、其先導者を以て自任す可きの義務あるは申す迄もなく、我國は先づ自から國を開て西洋の文明を輸入し、以て今日の有様を致したる經驗もあるが故に、隣國の爲めに文明の先導者たるには最も適任の地位に在るものなり。新開國の新事業一にして足らず、差向きの要は内政の整理にして、軍備なり財政なり又は郵便電信汽船鐵道の仕組なり、何れも從來の風習を一洗して文明の風を採用するの必要あることなれば、先導者たる我國にて怠らず注意して其改良を促し、經驗熟練の日本人を彼の地に送りて事業を助けしむ可し。或は財政不如意にして費用に不足を告るとあれば、相當の抵當を取りて我公私の資本を彼の政府に貸渡すなども臨機の處分として差支なかる可し。
又聞く所に據れば彼の咸鏡道※1地方の人民は、政府の苛歛※2に苦しめらるゝ其上に貴族の虐遇一方ならず、恰も二重の壓制に迚も國内に生活の望なしとて、自家の家屋田畑を其儘にして隣境なるサイベリヤ地方に逃げ去りたるもの既に十萬人の多きに及び、幾十方里の土地殆んど人烟を見ざる有様なりと云ふ。思ふに此地方たる幾千百年來開拓の國土にして、南洋未開の島嶼※3などの比に非ざれば、同國政府と約束の上我國に溢るゝ無數の貧民を其地に移して耕作に從事せしむるは彼我の便利にして、殊に我國の爲めに未開不案内の地に植民するよりも其利益大なるものある可し。
以上は固より我輩の空想なれども、若しも此空想をして實ならしむるを得ば、日本國中の人々は上下貴賤に拘はらず、皆朝鮮の事を心に關して、内政の改良に從事するものあれば、植民移住に盡力するものあり、専ら平和の手段を以て獨立の目的を達せんとする其中には、他國の關係より時に或は軍國の警(いましめ)を要することもある可きが故に、國中の人心は自から此一方に傾て、他事を思ふの暇なきに至る可し。立国の大計より云ふも又今の政治上の有様より見るも、政府が一大英斷を以て朝鮮政略を一定するは目下の至計なる可しと、我輩の敢て信ずる所なり(明治二十五年七月二十日所載)
※1■咸鏡道:(かんきょうどう)朝鮮半島東北部に位置する地域。李氏朝鮮の行政区分。朝鮮八道のひとつ。1467年から1470年までと、1498年から1896年まで使われていた名称
※■苛歛:(かかん? 「苛斂」であれば「かれん」)(苛斂:税金などをきびしく取り立てること。むごい取り立て)
※3■:島嶼(とうしょ)大小のしまじま(「島」は大きなしま、「嶼」は小さなしまの意)
<つづく>
(2024.4.28記)