第3906回 『福沢諭吉伝 第三巻』その554<第三 一大英斷を要す(6)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第三 一大英斷を要す(6)

 

 日支兩國共同して朝鮮を助くべしといふ其言葉の表は寧ろ穩かなれども、朝鮮政略の第一着手として日支兩國共に相互の知照なくして兵を朝鮮に送ること能はずとの一項を存する彼の天津條約を廢すべしといひ、日本は朝鮮の開國を促した第一國なるが故に先導者を以て自から任じ、其國内の文明的新事業には日本人を送ってこれを助け、或は其費用に不足を告ぐれば我官民の資金を貸與すべしといひ、彼の人口の少なき咸鏡道(かんきょうどう)の地方に我人民を移住せしむべしといひ、而してかく平和の手段を以て其獨立の目的を達せんとする中には、他國の關係より時に或は軍國の警(いましめ)を要することあるべきが故に、國中の人心は自から此一方に傾いて他事を思ふの遑なきに至るべしといふが如き、其意味は自から明日にして、事實上、日本の力を以て朝鮮を指導し、他國の干渉を排除するの決心を定め、以て國内の人心を此一方に傾けしむべしとの趣意である。

 後年東學黨の亂※1に際し、日支兩國共に朝鮮に出兵し、兩々相對峙して騎虎の勢いよいよ引くに引かれぬ場合となったけれども、實際に手を下すには何等の理由がなければならぬ。茲に於てか當局者は日支兩國共同して朝鮮政府に弊政※2改革の勸告をなすべしと提議したところ、支那がこれを拒絶したので、日本は單獨にてこれを勸告し、其結果遂に朝鮮國王の委任を受けて同國内にある支那兵を一掃することゝなったのが日支開戰の序幕であって、日支兩國の共同勸告は、恰も此所論の通りの手續を執ってゐる。即ち先生は早くから支那に對する交渉の手續までも考へてゐられたのである。

 

 ※1■東學黨の亂:(東学党の乱 とうがくとうのらん)朝鮮半島を舞台とした反乱。役人の税金横領に異を唱えた農民が逮捕される。それをきっかけに閔妃(びんひ)政権への不満は頂点に達し、新宗教「東学」の二代目教祖「崔時亨」(初代は「崔済愚(さいせいぐ)」)を中心として明治27年(1894)1月11日東学党の乱が勃発。翌28年3月29日まで続く。朝鮮に出兵した日本軍によって鎮圧された。

 ※2■弊政:(へいせい)弊害の多い政治。悪政

 

 <つづく>

 (2024.4.29記)