第3851回 『福沢諭吉伝 第三巻』その499<第六 同窓會と先生の招宴(2)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第六 同窓會と先生の招宴(2)

 

 一、福澤先生二十九歳の時の冩眞

 之は先生再度渡航の時歐洲にて撮りたるものなり。矢張り純然たる日本武士の風俗にして、前差の小刀を帶し、羽織、袴に結髪の風采、一見先生の壯年時代を囘想せしむ。

 一、馬場辰猪※1氏の寫眞

 一、同君墓碑の寫眞

 天品の才に加ふるに切磋琢磨の功を積みたる馬場辰猪氏は、實に慶應義塾同窓中出色の人物なり。惜い哉、氏夭(よう)して此才此學永く世の用を爲す能はざりき。墓碑の寫眞は實に君が費拉費(ヒラテルヒヤ※2)府永眠の地を寫したる者なり。

 一、小幡甚三郎※3氏の寫眞

 一、同墓碑の寫眞

 是れ小幡篤次郎氏の令弟甚三郎の寫眞なり。不幸にして天歳を暇さず、馬場氏と共に其終りを同ふす。亦惜む可き哉。

 一、中上川、莊田、福澤、坪井、四屋諸氏の寫眞

 是れ小幡篤次郎氏の出品にして、中には帶刀結髪のものあり。以て是等諸名士書生當時の情況を推知するに足るべし。

 一、天明版節用字引

 之は福澤先生の夫人が嫁入りの時持參の品にして、先生は毎度之を用ひて著書飜譯を爲したる由。今は早や表紙も手摺れ綴絲も緩み居れり。

 

 ※1■馬場辰猪:(ばばたつい)嘉永3年(1850)、土佐国出生。慶應義塾で経済学を専攻。明治3年と8年と2回にわたって渡英し、法律研究のかたわら英文で「日本語文典」「日英条約改正論」などを刊行。11年帰国し、小野梓の共存同衆会、14年国友会に所属して、自由民権運動に参加。14年自由党に入党。「朝野新聞」「自由新聞」紙上で論陣を張った。15年「天賦人権論」を刊行し、加藤弘之の〝人権新説〟を批判。後板垣退助と対立し、政界から離れ、19年渡米。新聞にて「日本人監獄論」などを執筆して藩閥政治批判を続けたが、1888年(明治21)11月1日、38歳、フィラデルフィアで客死した。

 ※2■費拉費(ヒラテルヒヤ):フィラデルフィア。米国のペンシルベニア州南東部にある同州最大の都市。ニューヨーク市とワシントンD.C.の中間に位置する。

 ※3■小幡甚三郎(おばたじんざぶろう):弘化3年(1846)中津出身。初期慶應義塾の運営に尽力するとともに、慶應4年に日本初のイディオム集「英文熟語集」を編纂。将来を嘱望されて米国に留学するも、精神を病み、1873年(明治6)、27歳で客死した。

 

 <つづく>

 (2024.3.5記)