1977年のドラフト会議で、東京メッツは水原勇気という
謎の選手を1位指名
しかし水原勇気は女だった!
この出来事でプロ野球界も世間も騒然
だが、女をドラ1で指名した事により、2位指名の捕手
帯刀守は入団合意から一転、入団拒否を表明
また水原自身もメッツ入団には態度を硬化
交渉は暗礁に乗り上げてしまった
水原のプロ入りは、本人との交渉以前にもっと難関が
立ちはだかっていた
当時の野球協約ではプロ入りできるのは『医学上男性で
ある事』と記載されていたのだ
つまり女はプロ野球選手になれない、、、(´・ω・`)
鉄五郎はNPBに呼び出され、そこで水原指名の経緯と
決して冗談半分の指名ではないと力説する
しかしコミッショナーの犬神は頑として首を縦に振らず
「協約は協約だ」と鉄五郎の主張を全く受け入れない
コミッショナーはアイパッチ付けてていいのか、犬神!
NPBとの交渉は決裂
だが「わしは絶対水原を入団させたる」と吼える鉄五郎
まだ54歳で現役投手の鉄五郎をクソジジイ呼ばわりの犬神
全国の50代に謝れ犬神ヽ(`Д´)ノ
時はドラフトからすでに3ヶ月が経過
プロ野球は春季キャンプも終り、オープン戦の時期に
突入していた
だが鉄五郎の交渉はいまだ難航
水原は鉄五郎徹底無視の姿勢を崩さない
鉄五郎不在のせいか、メッツはオープン戦も不調
あぶさんが代打満塁ホームラン打っとるし(^▽^;)
「鉄っつあん、はよ戻ってきてくれ~( ´(ェ)`)」
もはやなすすべのない五利監督
鉄五郎は春季キャンプも参加せず、一日中水原邸の
前で水原との話し合いの時を待っていたのだ
その頃、メッツ入団拒否の帯刀はようやく鉄五郎から
渡された水原のフォームの連続写真の存在を思い出す
「ぬぉぉぉっ、水原左のアンダースローやんけ」
ようやく水原の本来の姿に気付く帯刀
しかも水原のアンダースローは当時の代表的な阪急
山田や足立なんかとも違う
水原独特のフォームだ
今日もメッツはオープン戦でその阪急と試合
3回までに早くも6点を奪われていた
そんなチームのピンチさえもかえりみず、この日も
鉄五郎の水原詣では続く
「水原ぁー、わしの話も聞いてくれ~!」
だが水原の飼い犬が鉄五郎の侵入を阻止にかかる
「なんじゃーバカ犬、わしを噛みたいんやったら噛め!
わしの命より大事な左腕じゃ!!噛めるもんなら
噛んでみろ」
突然上半身裸になる鉄五郎
その頃メッツは阪急に3-19とボロ負け
なんじゃスシズンって・・・(^▽^;)
のう水原、お前アフリカで獣医になりたい言うとったけど
今のお前程度の気迫では、野生の猛獣の餌になるような
もんじゃ、プロ野球でもっと自分を磨いてから行ったら
どうや・・・
水原「はあ・・・・」
時刻はプロ野球ニュースの始まる時間に
当時は夜11時半くらいからの放送だったかな
鉄五郎は8時間くらい粘ってるのか・・・
ちなみに司会の佐々木信也役はご本人ですw
鉄五郎の必死の説得にも水原は無反応
「・・・そうか、わしがこんだけ頼んでもアカンか」
「よしわかった、そのかわり1球だけわしにお前の球
受けさせてくれ、そうしたらお前はわしから解放や」
鉄五郎は特注の左利き用のミットを見せる
(水原の声をあててた木ノ内みどりは声優初体験のため
はっきり言ってセリフが棒読み(;^_^A、そのせいか水原って
何考えてるのかわかんない不思議ちゃんな感じが、、、)
「わかりました、でも今日はもう遅いしウォーミング
アップの時間も欲しいので投げるのは後日でいいですか」
んで、その後日
・・・あれ?その辺の空き地かどっかかと思たら球場やん
しかも客入っとるで・・・( ̄□ ̄;)!!
そう、ここは阪神とのオープン戦が行われる試合前の
国分寺球場なのだ
これだけ見るとなんか始球式だな(^▽^;)
「にょほほ・・・ほー(。>0<。)」
低目から激しくホップする水原のストレートに対応
できず、捕球し損ねる鉄五郎
「いいよー水原~ドカベンに負けるなー」
観客席からヤジを飛ばす水島先生似のおじさん
っていうか、多分声は水島先生ご本人(^~^)
バシッ!
「おおっ」
以前受けた時とはまるで違う水原の球に驚く帯刀
水原のストレートは、ホップするだけでなく
シュートしたり全く変化しなかったり、ほぼ変化球のような
クセ球なのだ
見たか帯刀っ!
それが水原本来の球なんじゃ
わしはそれに惚れたんや
いやー、水原
ようこんな老いぼれに長い間付き合ってくれたのう
これでもうお前はわしから解放じゃ
獣医でも何でも好きなようにやってくれ
帯刀「岩田さん、今日が何の日か知ってますか?」
何の日て、わしの誕生日やないし・・・何の日や?
なんとこの日は、水原が希望していた東都大学獣医学部の
入試の日だったのだΣ(゚д゚;)
更に一旦はメッツ入りを断った帯刀も入団を承諾
おおっ、五利っ、一石二鳥とはこの事や
大喜びの鉄五郎と五利
そしてこの後、驚きの光景が
1-3につづく
さて、鉄五郎が水原に惚れ込んだ理由はなんと言っても
水原が左のアンダースローだったからだ
「今のプロ野球界には左のアンダースローはおらん!」
という鉄五郎のセリフがあるが、実は1人だけ当時の
プロ野球界に左のアンダースローは存在した
当時クラウンライターライオンズに所属していた
永射保(ながいたもつ)という投手だ
鹿児島県指宿出身のこの投手は、1971年カープにドラフト
3位で指名され入団
だがカープでの2年間は21試合に登板も、勝ち星はなし
74年に太平洋クラブライオンズにトレードされてから
頭角を現す
先発登板もあったが主に左のワンポイントでの出場で
79年~81年までは3年連続最多登板
水原勇気のモデルもこの永射投手だと言われている
まあ永射はアンダースローと言うよりはサイドスローに
近かったが、当時としてはかなり貴重な存在だった
左のアンダースローはとにかく長い日本のプロ野球の
歴史でもわずか数人しかいない
サイドスローすら絶滅危惧種くらい少ない
あとやはり元阪神のジェフ・ウィリアムス
このウィリアムスは左のサイドのうえ球速も150近く
出てたから、まあ最強のセットアッパーと言ってもいいだろう
だがしかし、誰もおそらく覚えていないだろうが
外人投手でもう一人、左のサイド(アンダー)スローがいた
それも巨人に∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
その名は、リック・クルーガー
1979年巨人にやってきた助っ人外国人投手で、江川事件で
阪神にトレードされた小林繁の19番を付けていた
このクルーガー、1度だけ先発登板したがスタミナが極端に
なく、主にワンポイントか敗戦処理がほとんど
試合数もわずか18試合に留まり、1年限りで退団した
当時はワンポイントという考えもあまり浸透して
いなかったのだ
だが、豊富な球種と時にはオーバースローやアンダースローで
投げる変幻自在なピッチングは当時「おっ、面白いピッチャー
だな」という印象だった
派手さは全くなかったが、使いようによっては日本で大化け
しそうな投手だったよ
ただ当時の長嶋監督は取り扱いがわからなかった、、、
当時外人枠は1チーム2人までで、長嶋さんの頭の中には
外人選手=パワフルでド派手でなければいけないという
固定観念があり、翌年ロイ・ホワイトという選手を獲ったため
貴重な左のサイドスローをあっさり手放して
しまうのである
まあ2つしかない外人枠をワンポイントの投手に使って
しまうのが惜しかったんだろうね、、、
今思うと非常に残念である(´・ω・`)