http://mainichi.jp/select/opinion/eye/
例えば、なかんずく目的があるわけでもなく、なんとなくインターネットサイトを巡回する。様々なサイトを閲覧する道中、全く興味の無い情報に遭遇することはよくあるだろう。そんな時、無意識にそのページにある情報を取得することを拒否し、別の興味ある情報サイトへ流れるという経験はないだろうか。インターネットをそれなりに嗜んでいる人の大半が、意識はしていないもののこうした行動を繰り返しているだろう。
全く当然の行動だ。何せインターネットで情報収集をする際、その目的はあくまでその個人が興味を持ったことに対しての探求なのだ。いや、そもそも情報を収集するという行為自体、その動機は自らの興味を発端としている。いかに早く、いかに多くの興味ある情報にたどり着くことが出来るか。インターネットがもつ最大の利点のひとつがそこにある。さらに言えば、いかにして興味の無い情報をそぎ落としながらネットの海を泳げるか、というところに、インターネット検索スキルの有無がかかっている。ネット上には膨大な量の情報があるが、それは個人の興味と価値観によって、宝石にもゴミクズにもなり得るのだ。
豈図らんや、こんな言葉を聞いたことがある。
「興味の無い話題(の掲載されているサイト)こそ、ブックマークをするべきだ。」
興味のある情報は、その個人にとっての得意分野であり、既にたいていの知識を持っている。もちろんその興味を補完・補強することも一興である。しかし興味の無い情報は、その個人にとって全くブラックボックスであることが多い。その情報にこそ、個人の見識や視野を広げるきっかけが隠されているのだ、ということを述べている。
なるほど、確かにもともと興味のある分野についての知識の補完という行為について、その伸びしろはたかが知れている。せいぜい既知の事柄についての情報を、上書きする程度であろう。しかしこれまで全く興味のかなった物事についての知識は、場合によっては皆無であることすらある。このような知識を新規取得することは、単純な情報量の増加を鑑みた場合、既知の情報の補完とでは比べ物にならないはずだ。場合によっては、そこから新たな興味が生まれる可能性もあるだろう。前述したとおり、インターネットの利点のひとつは、情報の取捨選択の容易さにある。裏を返せば、ふとわき道に生えている雑草を凝視してみると、実はそれが個人にとって至高のエーデルワイスであることも往々にしてあるということだ。
米国の憲法学者、キャス・サンスティーン(現オバマ政権高官)によれば、『人々は自分の耳に心地よい情報ばかりを交換し「連れ立って極端な立場に向かいがち」になる―――。マスメディアには、自分から求めない情報や意見との「思いがけない出会い」をもたらす機能があり、社会の分裂や過激主義の抑止になる―――。』という。
引用:毎日新聞「記者の目」http://mainichi.jp/select/opinion/eye/
マスメディアは個人と興味の無い情報との出会いをもたらし、その結果その個人は中庸の価値観と相対的視点を獲得する。サンスティーン氏は、著書の中でインターネットは個人にとって心地よい情報を集めやすくするツールであり、上記のような状況を生み出す可能性があることに警鐘を鳴らしている。しかしそれは運用の問題であり、使用法によってはインターネットほど「思いがけない出会い」をプロデュースできるツールは、他に無いだろう(ただし、インターネットが個人にとって心地よい情報を集めたくなるようなシステムを内包し、その機能を増強し続けていることは確かである。その意味において氏の主張は傾聴に値する)。
このことは、現代社会におけるマスメディア体制や、高度情報社会に重要な示唆を与えている。マスメディア大手の発する情報が偏重したものであれば、社会に流通する情報も同時に偏ったものになる。それを入手する大衆は緩やかに画一化した価値観を持つ。それはあたかも、攻殻機動隊S.A.Cシリーズの描いた、「スタンドアローンコンプレックス」現象を髣髴とさせる。非中庸で非相対的な価値観。それをインターネットという、不特定多数がバーチャルに交差する社会においてプロデュースされた場合、人々は無意識のうちにある一定の方向へ向かう。万が一その方向が、社会にとって芳しくない結末に続く道であったとしたら。現実の新聞各社の報道やテレビの報道番組を見れば、現代日本がこうした状況を生み出しうるシステムを、実は既に内包していることがわかる。多くのマスメディアは、利益を生む、または人々にとって耳ざわりの良い情報ばかりを垂れ流している。そもそも記者クラブという官邸の息がかかった団体が、国の情報の発信源であることも原因のひとつだ。
以上のことから、次のような結論が導き出される。高度情報社会という情報の氾濫した状態において重要なのは、情報の規制などではなく、情報を取捨選択できる環境を整備することにある。人が多くの情報に触れることによって、彼や彼女の価値観の多様性を育むことが出来るのであれば、その情報を一定の範囲内に規制してしまうことなど、愚策と呼ぶに等しい。情報規制を行うこと(極論を言えばこうなるが、現状の偏重した大手メディアの報道、情報の自主規制なども、緩やかに規制に加担しているといえる)は、即ち人が成長する機会を、ひいては社会がひとつ上のステージに成長する機会をみすみす奪う行為に他ならない。
では政治が行えることとは何か。それは教育である。氾濫する情報に絶えずさらされている人々に、その性質を伝え、対処法を施すのである。無菌状態を保つことによって、人を守るのか。もしくは免疫を作ることによって、人を成長させるか。長期的に見た場合、どちらが費用対効果の面で優れているのかは、明らかであろう。
ある小説の中で、駒城篤胤という人物がこう述べている。
「高邁な理想と、下劣極まりない理想をともに抱けて、人は始めて人足りうる。」
政府の言論統制に対して、情の規制ではなく、情の醸成に苦心するべきだ、と反論したときの言葉である。例え薄汚くとも、眩しすぎるほど輝かしくとも、出来うる限りそれらに触れ、感じ、確かめること。それこそが個人を抑制する限界という殻を、何度でもぶち破るための原動力となりうるのである。
例えば、なかんずく目的があるわけでもなく、なんとなくインターネットサイトを巡回する。様々なサイトを閲覧する道中、全く興味の無い情報に遭遇することはよくあるだろう。そんな時、無意識にそのページにある情報を取得することを拒否し、別の興味ある情報サイトへ流れるという経験はないだろうか。インターネットをそれなりに嗜んでいる人の大半が、意識はしていないもののこうした行動を繰り返しているだろう。
全く当然の行動だ。何せインターネットで情報収集をする際、その目的はあくまでその個人が興味を持ったことに対しての探求なのだ。いや、そもそも情報を収集するという行為自体、その動機は自らの興味を発端としている。いかに早く、いかに多くの興味ある情報にたどり着くことが出来るか。インターネットがもつ最大の利点のひとつがそこにある。さらに言えば、いかにして興味の無い情報をそぎ落としながらネットの海を泳げるか、というところに、インターネット検索スキルの有無がかかっている。ネット上には膨大な量の情報があるが、それは個人の興味と価値観によって、宝石にもゴミクズにもなり得るのだ。
豈図らんや、こんな言葉を聞いたことがある。
「興味の無い話題(の掲載されているサイト)こそ、ブックマークをするべきだ。」
興味のある情報は、その個人にとっての得意分野であり、既にたいていの知識を持っている。もちろんその興味を補完・補強することも一興である。しかし興味の無い情報は、その個人にとって全くブラックボックスであることが多い。その情報にこそ、個人の見識や視野を広げるきっかけが隠されているのだ、ということを述べている。
なるほど、確かにもともと興味のある分野についての知識の補完という行為について、その伸びしろはたかが知れている。せいぜい既知の事柄についての情報を、上書きする程度であろう。しかしこれまで全く興味のかなった物事についての知識は、場合によっては皆無であることすらある。このような知識を新規取得することは、単純な情報量の増加を鑑みた場合、既知の情報の補完とでは比べ物にならないはずだ。場合によっては、そこから新たな興味が生まれる可能性もあるだろう。前述したとおり、インターネットの利点のひとつは、情報の取捨選択の容易さにある。裏を返せば、ふとわき道に生えている雑草を凝視してみると、実はそれが個人にとって至高のエーデルワイスであることも往々にしてあるということだ。
米国の憲法学者、キャス・サンスティーン(現オバマ政権高官)によれば、『人々は自分の耳に心地よい情報ばかりを交換し「連れ立って極端な立場に向かいがち」になる―――。マスメディアには、自分から求めない情報や意見との「思いがけない出会い」をもたらす機能があり、社会の分裂や過激主義の抑止になる―――。』という。
引用:毎日新聞「記者の目」http://mainichi.jp/select/opinion/eye/
マスメディアは個人と興味の無い情報との出会いをもたらし、その結果その個人は中庸の価値観と相対的視点を獲得する。サンスティーン氏は、著書の中でインターネットは個人にとって心地よい情報を集めやすくするツールであり、上記のような状況を生み出す可能性があることに警鐘を鳴らしている。しかしそれは運用の問題であり、使用法によってはインターネットほど「思いがけない出会い」をプロデュースできるツールは、他に無いだろう(ただし、インターネットが個人にとって心地よい情報を集めたくなるようなシステムを内包し、その機能を増強し続けていることは確かである。その意味において氏の主張は傾聴に値する)。
このことは、現代社会におけるマスメディア体制や、高度情報社会に重要な示唆を与えている。マスメディア大手の発する情報が偏重したものであれば、社会に流通する情報も同時に偏ったものになる。それを入手する大衆は緩やかに画一化した価値観を持つ。それはあたかも、攻殻機動隊S.A.Cシリーズの描いた、「スタンドアローンコンプレックス」現象を髣髴とさせる。非中庸で非相対的な価値観。それをインターネットという、不特定多数がバーチャルに交差する社会においてプロデュースされた場合、人々は無意識のうちにある一定の方向へ向かう。万が一その方向が、社会にとって芳しくない結末に続く道であったとしたら。現実の新聞各社の報道やテレビの報道番組を見れば、現代日本がこうした状況を生み出しうるシステムを、実は既に内包していることがわかる。多くのマスメディアは、利益を生む、または人々にとって耳ざわりの良い情報ばかりを垂れ流している。そもそも記者クラブという官邸の息がかかった団体が、国の情報の発信源であることも原因のひとつだ。
以上のことから、次のような結論が導き出される。高度情報社会という情報の氾濫した状態において重要なのは、情報の規制などではなく、情報を取捨選択できる環境を整備することにある。人が多くの情報に触れることによって、彼や彼女の価値観の多様性を育むことが出来るのであれば、その情報を一定の範囲内に規制してしまうことなど、愚策と呼ぶに等しい。情報規制を行うこと(極論を言えばこうなるが、現状の偏重した大手メディアの報道、情報の自主規制なども、緩やかに規制に加担しているといえる)は、即ち人が成長する機会を、ひいては社会がひとつ上のステージに成長する機会をみすみす奪う行為に他ならない。
では政治が行えることとは何か。それは教育である。氾濫する情報に絶えずさらされている人々に、その性質を伝え、対処法を施すのである。無菌状態を保つことによって、人を守るのか。もしくは免疫を作ることによって、人を成長させるか。長期的に見た場合、どちらが費用対効果の面で優れているのかは、明らかであろう。
ある小説の中で、駒城篤胤という人物がこう述べている。
「高邁な理想と、下劣極まりない理想をともに抱けて、人は始めて人足りうる。」
政府の言論統制に対して、情の規制ではなく、情の醸成に苦心するべきだ、と反論したときの言葉である。例え薄汚くとも、眩しすぎるほど輝かしくとも、出来うる限りそれらに触れ、感じ、確かめること。それこそが個人を抑制する限界という殻を、何度でもぶち破るための原動力となりうるのである。