政府は東北3県(岩手、宮城、福島)の地デジ移行を、最長1年延長するという方針を表明した。→http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20110508-OYT1T00788.htm
未曾有の震災の最中、それに傾注する余力は無いというところだろう。加えて被災地において重要な情報源に混乱をきたすわけにはいくまい。妥当な判断だ。
この記事を見てふと気付くのが、地デジ化はそこまで急務の事業ではないということだ。政府、NHKおよび民放各局は、数年前からテレビCMをはじめ大々的に宣伝を打っていた。事実そうではないが、あたかも逼迫したような状況を作り出し、我々を煽っていた。既設のブラウン管テレビを地デジ対応化しなければならないという、大きな負担を伴う大事業であるのにもかかわらず、我々はさして不平不満を抱くことなく、この状況に行雲流水であったのではないか。
そこにはいくつかのカラクリがあると考えられるが、最も大きな原因として地デジ対応薄型テレビの普及が挙げられる。家電メーカー各社にとって、地デジ化は全くの僥倖である。何しろ自身は労せずして、国家規模で市場の開拓をしてもらえるのだから。また我々国民は、高度成長期における三種の神器よろしく、新たな神器の一つとして薄型テレビを歓迎した。それは高生活水準の証であり、豊かな人生を担保してくれるもののように思えた。事実薄型テレビは猛烈に普及し、政府発表ではその普及率は90%を超えたとされている。我々は地デジ化を拒むどころか、こぞって迎え入れた。地デジ化は全くもって時効に投じることとなったのである。
結果を端的に述べてしまえば、地デジ化とは薄型テレビを売ることだったのだ。政府は薄型テレビが売れる土壌を生み出し、家電メーカーは追いつけ追い越せといわんばかりに新商品を開発し、売る。国民はそれを買い、その利益が市場に還元される。停滞した国内産業に新たな市場を生み出し、金の血流を活性化させたのだ。地デジ化とは即ち、国の純然たる経済政策に他ならない。
そのことを批判するつもりは毛頭、ない。むしろ礼賛すらしよう。結果から見れば国民に負担を課し、経済効果を上げたのだから。しかも、ほとんどの不満を完封した上で、だ。本質を知れば不満は出たはずだ。国民は何も無ければ余計な出費は無かったはずなのに、半ば強制的にテレビの買い替えを強いられた。また、国は一方で環境問題への対応を声高に叫びつつ、ブラウン管テレビの廃棄を助長したのだ。環境にいいことであるはずが無い(環境問題自体が、同じく経済政策のひとつであるのだから仕方が無い。この考察については他稿に譲ろう)。しかし国民はそのことに気が付かなかった。いや、気が付くつもりが無かった。国がぶら下げた飴が、あまりにも甘く、巧妙であったのだ。その事実が、妙に薄気味悪く思えるのだ。
一種のファシズムに近い。国の政策とはこうまで絶妙にハマってしまうものなのか。マスメディアも地デジ化への批判はほとんどしなかったのではないか。それはおそらく、マスメディアにとっても地デジ化がなんとも甘い汁であったからである。メディア媒体の刷新とその技術革新は、宣伝広告経済にとって格好の獲物であるのだから。地デジ化のしたたかさは、マスメディアを味方につけたこと。そこにある。マスメディアを味方にさえつければ、民衆など手玉に取ったようなものだ。そうなってしまえば、民主主義の掲げる監視機能など微塵も機能しない。なにしろ、監視機能が全権をゆだねているとさえ言えるマスメディアが、その機能を放棄しているのだから。即ち、現代日本は、容易にファシズムよろしい状況が生み出されるシステムを内包しているのである。
日本は理想的な社会主義国家である、といった人がいる。表面的には民主主義国家であり、民衆の意思が脈動しているように錯覚するが、その実、赤く実った柿があればカラスの如く同一方向へ群がる。全くもって「健全な」社会主義国家である。薄気味悪さはそこにある。いつ何時、我々が大挙して、最大多数の最大不幸に向かう暗中の道へと、その足を踏み入れるのかわからない状況なのだから。
未曾有の震災の最中、それに傾注する余力は無いというところだろう。加えて被災地において重要な情報源に混乱をきたすわけにはいくまい。妥当な判断だ。
この記事を見てふと気付くのが、地デジ化はそこまで急務の事業ではないということだ。政府、NHKおよび民放各局は、数年前からテレビCMをはじめ大々的に宣伝を打っていた。事実そうではないが、あたかも逼迫したような状況を作り出し、我々を煽っていた。既設のブラウン管テレビを地デジ対応化しなければならないという、大きな負担を伴う大事業であるのにもかかわらず、我々はさして不平不満を抱くことなく、この状況に行雲流水であったのではないか。
そこにはいくつかのカラクリがあると考えられるが、最も大きな原因として地デジ対応薄型テレビの普及が挙げられる。家電メーカー各社にとって、地デジ化は全くの僥倖である。何しろ自身は労せずして、国家規模で市場の開拓をしてもらえるのだから。また我々国民は、高度成長期における三種の神器よろしく、新たな神器の一つとして薄型テレビを歓迎した。それは高生活水準の証であり、豊かな人生を担保してくれるもののように思えた。事実薄型テレビは猛烈に普及し、政府発表ではその普及率は90%を超えたとされている。我々は地デジ化を拒むどころか、こぞって迎え入れた。地デジ化は全くもって時効に投じることとなったのである。
結果を端的に述べてしまえば、地デジ化とは薄型テレビを売ることだったのだ。政府は薄型テレビが売れる土壌を生み出し、家電メーカーは追いつけ追い越せといわんばかりに新商品を開発し、売る。国民はそれを買い、その利益が市場に還元される。停滞した国内産業に新たな市場を生み出し、金の血流を活性化させたのだ。地デジ化とは即ち、国の純然たる経済政策に他ならない。
そのことを批判するつもりは毛頭、ない。むしろ礼賛すらしよう。結果から見れば国民に負担を課し、経済効果を上げたのだから。しかも、ほとんどの不満を完封した上で、だ。本質を知れば不満は出たはずだ。国民は何も無ければ余計な出費は無かったはずなのに、半ば強制的にテレビの買い替えを強いられた。また、国は一方で環境問題への対応を声高に叫びつつ、ブラウン管テレビの廃棄を助長したのだ。環境にいいことであるはずが無い(環境問題自体が、同じく経済政策のひとつであるのだから仕方が無い。この考察については他稿に譲ろう)。しかし国民はそのことに気が付かなかった。いや、気が付くつもりが無かった。国がぶら下げた飴が、あまりにも甘く、巧妙であったのだ。その事実が、妙に薄気味悪く思えるのだ。
一種のファシズムに近い。国の政策とはこうまで絶妙にハマってしまうものなのか。マスメディアも地デジ化への批判はほとんどしなかったのではないか。それはおそらく、マスメディアにとっても地デジ化がなんとも甘い汁であったからである。メディア媒体の刷新とその技術革新は、宣伝広告経済にとって格好の獲物であるのだから。地デジ化のしたたかさは、マスメディアを味方につけたこと。そこにある。マスメディアを味方にさえつければ、民衆など手玉に取ったようなものだ。そうなってしまえば、民主主義の掲げる監視機能など微塵も機能しない。なにしろ、監視機能が全権をゆだねているとさえ言えるマスメディアが、その機能を放棄しているのだから。即ち、現代日本は、容易にファシズムよろしい状況が生み出されるシステムを内包しているのである。
日本は理想的な社会主義国家である、といった人がいる。表面的には民主主義国家であり、民衆の意思が脈動しているように錯覚するが、その実、赤く実った柿があればカラスの如く同一方向へ群がる。全くもって「健全な」社会主義国家である。薄気味悪さはそこにある。いつ何時、我々が大挙して、最大多数の最大不幸に向かう暗中の道へと、その足を踏み入れるのかわからない状況なのだから。