足利事件の真相 その二 | 宇都宮義塾

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今回は「福島万弥ちゃん殺害事件」について書く。


福島万弥ちゃん(当時5歳)は1979年8月3日(金)正午頃、

自宅近くの八雲神社境内に一人で遊びに行ったまま行方不明となり、

6日後の8月9日(木)午後2時40分頃、渡良瀬川河川敷の草むらで

登山用リュックサックに詰め込まれた状態で遺体が発見された。

死因は窒息死だった。


失踪直前の8月3日正午過ぎには、昼食のためにバイクで帰宅した父親が

自宅脇の八雲神社で万弥ちゃんが遊んでいるのを目撃している他、

午後1時頃には、25歳前後の紺色のトレパンを穿いた男と一緒に

境内の石の上に座ってジュースを飲んでいる万弥ちゃんを

近くに住む88歳の老女が目撃。

また、午後2時半頃には、八雲神社から200メートルほど離れた路上で

上半身が裸の5歳くらいの男児と手を取り合って歩く万弥ちゃんの姿を

中華料理店の店員が目撃していた。



■万弥ちゃん事件、菅家利和氏は“犯行可能”だった


 万弥ちゃん事件を菅家さんが「自白」するまでの一一年間は、
事件当日の午後二時半頃が万弥ちゃんが最後に目撃された時刻とされていました。
万弥ちゃんの自宅がある八雲神社の近くの食堂で働く男性が
「正午から午後一時までの昼食時を回った午後一時過ぎに出前の電話を受け、
注文を届けて店に戻った午後二時半頃、店の前で、万弥ちゃんが同い年くらいの
男の子と渡良瀬川のほうへと賭けていったのを見た」と供述していたのです。
 男性は、「万弥ちゃんの自宅や祖父母の家に出前に行くこともよくあり、
万弥ちゃんは自分になついていた、事件の前日にも万弥ちゃんを見ていて、
見間違えることはない」と供述していました。
そして、万弥ちゃんを見た時刻についても、出前の伝票が存在し、
しっかりと裏付けが取れていたのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p46)


 しかし、その日(一九七九年八月三日)は、金曜日で、平日でした。
そして、菅家さんは、皆勤で、その日も当時勤めていた
B保育園に出勤していたことは動かし難い事実でした。
そこで、菅家さんに可能な犯行時刻は、自宅に戻って食事をした一二時から
午後一時までの昼休みしかなかったのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p47)


 ともあれ、菅家さんが万弥ちゃんを殺すことは時間的に不可能でした。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p48)



※佐藤博史氏はこのように、

「菅家氏は勤務時間中だったから万弥ちゃんを殺害するのは不可能」

という旨を主張しているのだが、

これは明らかに「事実誤認」である。

もしくは「虚偽」である。

 


 勤務時間は午前七時五十分から同九時が迎車運転、
同九時-午後零時が給食調理の手伝い、
同零時-同一時が昼休み、
同一時-同三時が寺などの清掃、
同三時半-同四時半が送車運転となっていた。
 同園関係者の証言によると、
寺の清掃は義務付けられていたことではなく
「雑用があればやる時間」
のため、
捜査本部は昼休みを含めた八月三日午後零時から同三時半の
間が犯行時間
とみて、更に絞り込んでいる。
(1991年12月24日付『下野新聞』2面)



※すなわち、万弥ちゃん事件発生当時、

菅家氏の実質的な昼休みは「正午~午後3時半」だったのだ。

寺での雑用がある日を除けば、自由な時間は3時間30分もあった。

だから菅家氏が万弥ちゃんを殺害することはじゅうぶん可能だった。


※それに、警察が「菅家は万弥ちゃん事件もクロだ」と

確信を深めた理由は他にもあった。

菅家氏はかつて、万弥ちゃん宅の近所の金物屋で働いており、

相当な土地勘があると思われたのだ。



菅家容疑者 万弥ちゃん宅近く知る

(中略。菅家氏の学歴と職歴が記述されている)

このうち、約二十年前から五年ほど勤めた金物店は、
七九年八月に殺害された福島万弥ちゃん=当時(五つ)=が失踪した八雲神社、
すぐ近くの万弥ちゃんの自宅とはわずか三百メートルの距離。
事件当時は既に退職していたとみられるが、
失踪現場や被害者宅付近に十分な土地鑑があることもうかがえる。
さらに、福島さん宅に小さな女の子がいることを知る機会も十分あったともみられる。

(1991年12月4日付『下野新聞』2面)



※しかも、菅家氏が週末を一人で過ごしていた足利市福居町の借家は、

万弥ちゃんの失踪現場と長谷部有美ちゃん(1986年3月8日に遺体で発見)

の失踪現場とはほぼ「等距離」の位置にあった。

そのような事実も、警察による確信(菅家はクロだ)を更に深めさせた。


 

 この借家は八四年に長谷部有美ちゃん=当時(五つ)=が失跡した

パチンコ店や万弥ちゃんの失跡現場とは、いずれも直線で二・五キロ前後。

万弥ちゃん、真実ちゃんの遺体が発見された渡良瀬川河川敷からも直線で

一・五キロ弱で、自転車を使えば容易に行き来できる位置にある。

 菅家容疑者はパチンコ好きで、真実ちゃんの失跡現場のパチンコ店にも度々来店。

パチンコ好きな菅家容疑者が、借家からそう遠くない有美ちゃんが失跡した

パチンコ店に通っていたことも十分考えられる。

(1991年12月4日付『下野新聞』2面)



※ちなみに、逮捕当時の報道では、菅家氏の借家および実家の位置と、

3つの殺人事件のそれぞれの失踪現場と死体遺棄現場の位置が

わかりやすい地図で示されているのだが、

菅家氏の釈放後に出版された清水潔『殺人犯はそこにいる』、

下野新聞社編集局『冤罪足利事件』に掲載されている地図では、

どういうわけか菅家氏の借家(と実家)の位置が示されていない。


それどころか、清水潔『殺人犯はそこにいる』の地図では、

被害女児たちの「遺体発見現場」しか示されていない。

(1996年7月7日の群馬県太田市・横山ゆかりちゃん失踪事件に関しては

ゆかりちゃんの「誘拐現場」が示されている)


これでは、菅家氏が週末を一人で過ごしていた「足利市福居町の借家」という活字を読んでも、

足利市民等、土地勘がある者にしか具体的な場所がわからないではないか。


先ほども書いたが、菅家氏の借家があった福居町というのは、

万弥ちゃんと有美ちゃん、それぞれの失踪現場と「等距離」の位置にあったのだ。


おそらく、1996年7月に群馬県太田市のパチンコ店で発生した

横山ゆかりちゃん失踪事件の犯人(通称「ルパン」)が足利事件の真犯人である、

という説を唱える清水氏としては、『殺人犯はそこにいる』の巻頭に掲載した地図の中に

それぞれの被害者の失踪現場と菅家氏の福居町の借家の位置を示すことによって、

読者が“借家”と“2つの失踪現場”との【位置関係】に注視してしまうことは都合が悪かった。

だから、「遺体発見現場」の位置しか掲載しなかった。

私にはそうとしか思えない。



■菅家氏「取調官があまりにいい人だったので、つい余計なことを言った」

 

 真実ちゃんの事件で起訴されたあと、その事件より前に起きていた
別の二件の幼女殺害事件についても自供させられました。
 この二件については結局、嫌疑不十分で不起訴になりましたが、
「こっちの事件もお前だろう?」と迫られると、
そうです、と答えるしかなくなっていたのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p22)


河野 菅家さんの場合、その前に起きていた
2件の幼女誘拐殺人事件についても逮捕されたんですよね。
「これもやったんだろ?」と言われたわけですか?


菅家 そうです。お前がやったんだ、と。


河野 でも、どうやって供述するんです?
辻褄が合わないんじゃないかな。
「とにかくやりました」しかないわけでしょう?


菅家 他の2つの事件についても
「調べられると思っただろう?」なんて言われたんですよ。
それで、「はい、やりました」ってつい言っちゃった。
馬鹿だな、と思いましたけど。
(菅家利和・河野義行『足利事件 松本サリン事件』p80)


 厳しい取り調べは連日続いた。H警部は足利市で起こった他の二件の
幼女誘拐殺人事件の自供も迫った。
「お前なんだよな!」そう怒鳴り、イスに座った菅家さんの膝を持って、
前後にガタガタ揺すった。
もはや自棄になっていた菅家さんは三件全てについて自供したという。
 こうして菅家さんは連続殺人犯となった。
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p91~92)



※これも菅家氏の逮捕当時の供述とは極めて異なっている。

というよりも「正反対」である。

菅家氏は当初、接見に訪れた梅沢錦治弁護士(第一審まで担当)

に対して、「嘘の自白」をした理由を下記のように主張していたのだ。



冷静に受け止め
    弁護人

 有美ちゃん事件で菅家被告が書類送検されたことに対し、
梅沢錦治弁護人は「嫌疑があるのだから警察は捜査し、
容疑が固まったと判断したので書類送検したのでしょう。
特に批判はしません」と冷静に受け止めている。
 しかし、梅沢弁護人は菅家被告を「人に迎合しやすいタイプ」と分析。
「やっていないことまで取調官にのせられて言ってしまう」と、
自供の信用性に疑問を投げ掛けている。
 菅家被告は梅沢弁護人に対しても
「万弥ちゃん、有美ちゃんも私が殺した」
と言ったことがあったというが、今は
「実はでたらめを言った。本当のことを言ったわけではない。
取調官があまりにいい人だったので、つい余計なことを言った
と真実ちゃん以外の二件については犯行を認めていないという。
(1992年2月11日付『下野新聞』2面)



※3人も殺せば確実に「死刑」である。

本当に、やってもいない、事実無根の件で誤認逮捕されたのであるならば、

「取調官が良い人だったから」という理由で「嘘の自白」をする人間が

この地球上の何処に存在するというのだろうか?極刑は免れないのに?


繰り返すが、菅家氏は当初、一審を担当した梅沢錦治弁護士に対し、

万弥ちゃん事件および有美ちゃん事件の取調べで「虚偽の自白をした理由」について、

「取調官に拷問を受けたから」などとは一言も言っていなかった。


「取調官があまりにいい人だったので、つい余計なことを言った」


のである。



■リュックサックの元の持ち主は足利市内の登山クラブのメンバー


記憶
「カーキ色やいくつもポケットが付いた独特の形。事件のリュックにそっくりでした」
一○年七月中旬、足利市内のファミリーレストラン。
県南の四十代女性は、七九年八月の万弥ちゃん事件で犯行に使われた
リュックサックの写真を手に再度強調した。
(中略)
「いつか言わなきゃと、ずっと胸につかえていたんです」
約三十年前の小学生時代、仲の良かった友人宅。
遊びで訪れた居間の柱にかかる「特殊な形」のリュックを、
女性は数回目撃したという。万弥ちゃん事件発生前の時期だった。
 〇九年秋から一〇年夏にかけ、女性の証言を詳細に確認した。
記憶の大半は正確だった。すると、女性も知らなかった事実と友人宅が予期せぬ形で結び付く。
 当時三十代だった友人の父親と、万弥ちゃん事件で県警が
「有力参考人」の一人としてマークした男は同一人物だった。
(中略)
「万弥ちゃん事件発生後、一人で留守番をしていた時に刑事が来て、
リュックの写真が入ったチラシを手に『見覚えある?』と尋ねられたんです」
 ところが小学生だった女性は「子供心に怖くなり、友人宅で見たリュックの話は
とてもできなかった」と当時の心境を打ち明ける。
(中略)
 女性が友人宅で見たリュックは、事件と無関係の似たリュックだった恐れもある。
 元工員が所持していたとしても、事件前に盗まれたり知人に譲ったことも考えられる。
 だが、女性の証言は解明されなかったリュックと所有者を結ぶ何らかの糸口になるかもしれない。
(下野新聞社編集局『冤罪足利事件』p254~256)



※上記の文章を読み、私は思わず「おいおい」と突っ込みを入れたくなってしまった。

何故ならば、下野新聞社はかつて、万弥ちゃん事件のリュックの元の所有者を

はっきりと報道していたからだ。


 一方、捜査本部は処分保留になっている万弥ちゃん事件でも裏付け捜査を続行。
有力な物証で、遺体を詰めたリュックサックの元の持ち主まで特定している。
この人は同市内の登山クラブのメンバーで、戦後まもなく登山用に購入。
いつの時期か判明しないが事務局に置いていたリュックがなくなっていたという。
 菅家容疑者は、リュックは同市栄町一丁目付近のゴミ箱から拾ったと供述しており、
捜査本部はだれが捨てたのか当時の登山仲間を中心に捨てた人を探している。
(1992年1月22日付『下野新聞』2面)


※この登山クラブメンバーが所有していたリュックサックが

その後、何らかの経緯で元工員の手に渡った、という可能性も考えられるが

(40代女性によるリュックに関する目撃証言が確実であると仮定した場合)、

兎にも角にも、リュックサックの元の持ち主は1992年1月までに既に特定されているのであり、

そして、『冤罪足利事件』において、(1996年の太田市・横山ゆかりちゃん失踪事件も含めた)

一連の事件への関与を暗に疑うかのように記述されている、この元工員とされる人物には、

実はアリバイがあった。(後述)



■当初マークされた元工員Aは事件発生時、市役所に印鑑証明を取りに行っていた

 

 万弥ちゃん事件発生から二、三ケ月後の七九年秋。
 県警は、①幼女に性的関心を持つ、
②事件直後に万弥ちゃんが行方不明になった現場近くで

不審者を見たと自分から栃木県警に電話した、
③現場に土地勘がある――などを理由に、
栃木県南地区の元工員の男の身辺捜査を強化する。女性の友人の父親だ。
 七九年十一月に突然失踪した元工員は翌八〇年春までに県外にいることが判明し、
捜査員が事情聴取した。
決め手となるリュックと元工員の接点は出なかったものの、
その後も捜査線上に残ったという。

「捜査の過程で浮上した男の一人。捜査は尽くしたはずだ」。
高齢になった当時の栃木県警幹部や捜査員はこう答えつつ、
細部になると首を横に振った。
「アリバイの有無? もう記憶にない」
(下野新聞社編集局『冤罪足利事件』p255~256)



元工員Aにアリバイがあったことは、当の下野新聞社が当時、ちゃんと報道していた。

高齢になったとはいえ、このような凶悪犯罪の捜査に直接関っていたのに

「アリバイの有無?もう記憶にない」などと平然と言い放つ元捜査員もどうかと思うが、

自社で過去にバッチリと報道した内容をすっかり忘却してしまっている(もしくは隠蔽している)

下野新聞社のジャーナリズムも甚だ疑問である。



崩せないアリバイ
有力参考人 突然行方くらます

 同捜査本部は、有力参考人としてマークしてきた足利市内に住む元工員A(三八)が
その後突然行方をくらましたことから容疑を深めているが、
リュックサックなど遺留品との結びつきが解明できないことや、
万弥ちゃんが行方不明になった当日のAのアリバイが崩せず、強制捜査に踏み切れないでいる。
(中略)
 捜査本部がAを有力参考人とみているのは
①幼女に異常な関心を持ち変質者的な行動がある
②事件直後に自分で万弥ちゃんが行方不明になった現場近くで不審者を見たと警察に電話している
③現場周辺の地理に詳しい
④警察の身辺捜査が進み出した段階で突然行方をくらました
⑤家出するような原因がない-など不審、不自然な行動が多いため。
 Aは、ことし七月まで自宅でカバンを製造して暮らしていたが、
七月末から同市内のメッキ工場に勤め、
万弥ちゃんが行方不明になった八月三日は夏休みで工場を休んでいた。
捜査員がAの身辺捜査を強化しはじめたころから、
それまでほとんど休んだことのない工場を休み始め、
十月中旬には連続十日間も欠勤している。
同工場の経営者から十五万円借金したが、
十一月二日に給料をもらったあと、突然行方をくらました。
四十九年に静岡県から同市内に移り住んでいたが、
ことし四月に妻と協議離婚して事件当時は独り暮らしだった。
 これら一連の不審な行動から同捜査本部は容疑を深めているわけだが、
半面、万弥ちゃんが行方不明になった八月三日にAが足利市役所に印鑑証明をとりに行っており、
同伴者がいて時間帯の一部に一応のアリバイがあり、万弥ちゃんの死体が入っていた黒ビニールの
ゴミ袋もAがカバン製造で出るクズを入れるため購入していた黒ビニール袋とはサイズが違い、
さらにリュックサックとの結びつきが出てこないなどAの容疑性を否定する材料もあるだけに、
捜査本部はAの犯行の可能性は五分五分としている。
しかし、アリバイについては空白の時間帯も多いことから、詰めて行けば解明できるとみており、
最終的にはリュックサックなど遺留品との関連性追求が事件解決のカギとして、
なお捜査線上に残っている数人の人物とともにAの身辺捜査に全力を挙げている。
1979年12月28日付『下野新聞』2面)



※「捜査本部はAの犯行の可能性は五分五分としている。」

とあるが、この後、元工員Aに関する情報が途絶えてしまっていることから、

結局、警察はAのアリバイをどうやっても崩すことが出来なかったのだろう。

元工員Aが万弥ちゃん事件が発生した時間帯のなんどきかに

同伴者と足利市役所に印鑑証明を取りに行っていたのには兎に角確証があった。

そして、再び書くが、万弥ちゃん事件で使われた古いリュックサックの元の持ち主は

足利市内の登山クラブのメンバーであることが後に判明しているのだ。


尚、上記新聞報道は1979年12月末のものだが、

『冤罪足利事件』では何故か「1980年春以降」にAを事情聴取したかのように

記述されているのが不可解である。



続く。



画像

1991年12月2日午後0時40分、

宇都宮地検に送検のために足利警察署を出る菅家利和氏。