足利事件の真相 その一 | 宇都宮義塾

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「一次資料(原典。ある事象の発生と同時期に作られたナマの資料。

歴史学の場合は“史料”と書く)に当たる」

というのは学術を研究する姿勢として基本中の基本であり、

特に歴史学においては一次史料に触れたことが無い者が

該当事象について何かを論じる資格は皆無である。


私は、2010年3月26日、宇都宮地方裁判所において

無期懲役で服役していた元幼稚園バス運転手の菅家利和氏に対して

「当時のDNA鑑定に証拠能力はなく、自白も虚偽である」と判示し、

「再審無罪」の判決が下された『足利事件』(松田真実ちゃん殺害事件)、

及び真実ちゃん事件以前に同じ足利市内で起きていた“2つの幼女殺害事件”について、

1979年8月3日の1番目の殺人『福島万弥ちゃん殺害事件』が発生したのと

同時期に記述された、入手しうる限りの一次資料から徹底的に精読してきた。

新聞報道に関しては、大手四紙(朝日、読売、毎日、産経)よりも

栃木県の地元メディアである「下野新聞」の情報力が秀でていたので、

これを中心に熱心に研究した。

そして、二次資料・三次資料たる、菅家利和氏の逮捕(1991年12月2日)後、

菅家氏の釈放(2009年6月4日)後に作られた各種資料も一通り読んだ。

(菅家氏に無期懲役の判決が下るまでの捜査・裁判過程や、

DNA型再鑑定、再審に関する資料はこの時期に作られたものが一次資料となる)


さて、足利事件について、かなりの程度、勉強を重ねた

そんな私がこの事件の率直な感想を一言で述べるとすれば、


「なんじゃこりゃ!?」


である。


というのも、


菅家利和氏、

佐藤博史氏(二審から菅家氏の弁護を担当)、

警察、

検察、

裁判所、

マスコミ、

目撃証言者、

菅家氏の知人や同僚、

被害者遺族…


この事件に登場するあらゆる人物・組織の言動が「滅茶苦茶」だからだ。

特に、菅家利和氏のDNA型再鑑定が2009年5月に「不一致」になってから発信された

二次資料、三次資料が概ね「支離滅裂」なのである。

一次資料の内容と、いたるところで「食い違っている」のだ。


当ブログでは、今回から、

『足利事件』に無数に存在しているそれら不可解な「食い違い」を指摘した上で、

特に気になる「謎」については、私なりに推論を行い事件の真相に迫ろうと思う。


尚、引用する文章は原典をそのまま書き起こすことが主意であるが、

プライバシー保護のため、実名で表記する必要性が無いと思われる人物に関しては

イニシャルに置き換え、又、重要箇所は赤字で強調する。(「※」以後の文章が私の意見)



■あやふやな目撃証言

 

 だが、私達が取材を重ねても、菅家さんらしき人物を見たという人や、
幼い女の子を乗せた自転車の二人乗りを見たという目撃者は出てこなかった。
 しかし、別の重大なシーンを見た人達ならば、いたのである。
 その人達は事件発生直後に目撃証言を警察に伝えている。
だが、不思議なことに、その証言は煙のように消えてしまい、
「この事件に目撃者はいない」ということになっている。
聞けば、目撃証言を行った人達のうちの二人については現場で細かい実況見分も行い、
合計で一〇〇ページを超える分厚い調書まで作成されていた。
 そのうちの一人は、渡良瀬川の土手の近くに住む自営業の吉田(仮名)さんだ。
吉田さんは事件のあったその日、一八時過ぎから河川敷にいた。
芝の上にいくつかボールを転がして、ゴルフの練習をしていたという。
「たまたま土手のほうを、ふっと見たんだよ。
そしたら、女の子と手をつないで降りて来る男を見た。
土手の法面を下りてきたんですよ。二人は、手をつないでいましたね」
(中略)
「男は、あんまり若くないね。遠くだから顔までは良く見えない……。
子供は、えーっと……四歳くらいかな。
二人がずーっと行った先に、遺体があったんだからね。
ああ、犯人はあいつだなと思ったよ」
 菅家さんの自供内容を詳しく知らない吉田さんは、逮捕されたのは
自分が目撃した男だと信じていた。どんな男だったんですか? と尋ねると、
吉田さんは、うーんと吐き出すように言った。
はしっこそうな(すばしっこい)男だった。ひょろりとした感じでね。
そう、漫画のルパン三世、あれにそっくりだったんだよ。感じがね」
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p79~80)


目撃
「もう二十年たつけど、今でも覚えているよ。
中年の男が女の子の手を引いて土手を斜めに降りて来たんだ」。
足利市内の会社役員男性(七五)が当日の記憶を呼び戻した。
 真実ちゃんが同市伊勢南町のパチンコ店「ロッキー」駐車場から
突然失踪した日の午後六時半すぎ。
会社役員は土手を挟みロッキー駐車場の南約七十メートルの渡良瀬運動公園内で
ゴルフのパター練習をしていた。
親子連れにしては不自然な感じ。二人までの距離は七十メートルぐらいあり、
人相や着衣まではわからなかった
 百八十四人態勢の捜査員たちは、駐車場周辺や同公園内の聞き込みを徹底的に行った。
土手から続く公園内で中年男と赤いスカートの女の子が歩く姿を同じ時間帯に見たという
女性の証言も入手し、当初二人の目撃を犯人に結びつく有力情報とした。
(下野新聞社編集局『冤罪足利事件』p35)



※清水潔氏(日本テレビ報道局記者・解説委員)は

「事件発生直後に目撃証言を警察に伝えた人物」の存在について、

あたかも「(警察によって)闇に葬られた」かのように記述しており、

wikipediaの「足利事件」の項にも、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

>(ちなみに、目撃証言が存在していたことやそれに基づく捜査が行われていたことが

>初めて公にされたのは近年の清水潔の調査報道によるものである。)


と書かれているが、

河川敷でゴルフの練習をしていた近所に住む男性による目撃証言に関しては

下記のとおり、事件発生当初から明確にマスコミに報道されていたのだ。

だからwikipediaの上記述は「誤り」である。



中年男 幼女の手引く

足利の真実ちゃん事件
失跡時間帯 土手で
近くに盗難バイク放置

(中略)
足利署捜査本部は十五日までに、同河川敷の土手を真実ちゃんが失跡した時間帯に
中年男が幼女の手を引いて下りていたとの有力目撃を得た。
捜査本部は真実ちゃんと犯人だった可能性があるとみて割り出しを急いでいる。
また真実ちゃんの殺害現場とみられる同河川敷の児童遊技場近くで、
失跡時間帯に近くのパチンコ店から盗まれたバイクが発見されており、
捜査本部は事件との関連について捜査している。
 
 調べによると、女の子と中年の男を目撃したのは近所に住む男性で、
十二日午後六時二十分から同三十分ごろ、河川敷でゴルフの練習をしていて目撃した。
男は女の子の手を引いて土手を斜めに下りているところで、すぐ近くには児童遊技場がある。
 目撃した場所は真実ちゃんが姿を消した同市伊勢南町のパチンコ店「ロッキー」から約二百メートル。
二人を目撃した男性は「男は女の子を後ろ手に引いており、
親子という雰囲気はなく奇妙な感じがしたのでよく覚えている。
女の子はスカートをはいていたが、二人との距離が七十メートルほどあり、
薄暮だったので男や幼女の人相、着衣は分からなかった」と話している。
当時、児童遊技場には大人一人子供四、五人が遊んでいたという。
(1990年5月16日付『下野新聞』2面)

 

 この時刻に幼女を連れて土手を下りる不審な中年男性を、
ゴルフ練習中の会社役員が約七十メートル手前から目撃している。
この人は「男のシャツがカーキ色だったのは覚えているが、
人相などは分からなかった」と証言している。
確かに二人までの距離は遠過ぎる。
(1990年5月20日付『下野新聞』2面)



※事件当日、不審な中年男に連れられた幼女を目撃したという、

渡良瀬川河川敷でゴルフを練習していた会社役員の男性

(清水潔氏が名付けたところの「吉田(仮名)さん」。以下、私もこの仮名を用いる)

の証言は1990年5月16日の報道を皮切りに、連日、紙面を飾り、

真実ちゃん事件初期の報道においてはキーパーソンのような扱いであった。


だが、事件当初の吉田さんは、目撃した不審な中年男性について

「女の子を後ろ手に引いており、親子という雰囲気はなく奇妙な感じがした

から強く印象に残っていたのであって、

「はしっこそうな(すばしっこい)」「漫画のルパン三世にそっくり」などとは供述しておらず、

人相、着衣は分からなかった」と主張していたのだ。

(1990年5月20日からは「シャツがカーキ色だった」と報じられる)


また、「後ろ手に引いて」という表現と「手をつないで」という表現を

吉田さんが同じニュアンスで使用しているとは考えにくい。

其々の言葉を見聞きして抱くイメージはだいぶ異なるものだが、

これは、後述するもう一人の目撃者「松本(仮名)さん」の証言との

食い違いを避けるために、吉田さん、もしくは清水氏が

意図的に表現を改竄したのではないか?と私は勘繰ってしまう。

清水氏の本で吉田さんが「手をつないで」を強調するかのように

わざわざ2回言っているのも不自然である。


そして、清水氏の本と同じく菅家氏の釈放後に出版された

下野新聞社編集局『冤罪足利事件』では、吉田さんはどういうわけか

事件発生時と同様に「人相や着衣まではわからなかった」と述べているのだ。

このように吉田さんの目撃証言には一貫性が無く、「あやふや」な印象は拭えない。



■目撃証言は警察犬の動きと食い違っていた


 当時の捜査幹部にこの疑問をぶつけてみた。
「いやー、違うね。あの証言は信頼できなかった。
いいかげんな証言はいっぱいあったんだよ、いっぱいさ。
目撃情報なんてアテになんないんだよ。
人のことなんか、よく覚えてないからね。
二人が見たって言う男も、服装とか髪型で証言が食い違ってさあ……」

違和感を覚えたが、こちらにはそれを覆す根拠もない。
頭の中で「消された証言」という単語がぐるぐると廻るばかりのまま、引き下がるよりなかった。
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p82)

 

 栃木県警は、赤いスカートの少女を真実ちゃんと見なしていた時期が確かにあったのだ。
テープの箱に記載された取材日のデータを見れば、
吉田さんと松本さんが証言を行った数日後だ。
警察は吉田さんと松本さんの証言から、
いったん赤いスカートの女の子を真実ちゃんだとした。
ところが逮捕された菅家さんは、あろうことか、
「自転車の荷台に乗せた」と自供してしまう。
その瞬間から、「歩く」目撃証言は邪魔になったのではないか。
モニターに釘づけとなった私の心にむくむくと疑問が湧き起こった。
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p83)


 だが、重大なはずのこの証言は、一年半後になってかき消される。

なぜならDNA型が一致して、“犯人でなければならない”菅家さんが、

「自転車の荷台に乗せて誘拐した」と自供したからだ。

その瞬間から「歩いていた二人」の目撃証言は邪魔になった。

以後、松本さんと吉田さんの調書は封印されたのだ。

(清水潔『殺人犯はそこにいる』p136)



※清水氏はこのように、事件当初に存在した目撃証言を警察がかき消した理由を、

菅家氏が逮捕後に「自転車の荷台に乗せた」と自供したので警察にとって邪魔になったから、

としているが、私は全くそう思わない。「警察犬」である。



 同捜査本部は、真実ちゃんが失跡した直後の十二日深夜、
自宅にあった真実ちゃんの靴のにおいをもとに警察犬による追跡捜査を実施した。
真実ちゃんはこの日午後六時半ごろ、パチンコ店の駐車場にある景品交換所前と、
店の近くの路上で目撃されている。
このため警察犬はこの二地点からの追跡を開始。
駐車場を出て、東方の土手を越えて下の道路の歩道を下流方向に行ったあと、
Uターンするように道路を横切って土手を登り、
渡良瀬運動公園内の児童遊技場付近まで来るという道順を二度ともたどった。
(1990年5月15日付『下野新聞』1面)


 ―足取り

 足利署は真実ちゃん失跡が両親によって確認された二時間後の十二日午後十時ごろ、
警察犬二頭で足取りを追った。真実ちゃんの靴をかがせ追跡捜査をしたが、
日ごろの真実ちゃんの行動範囲や、目撃情報と大きな食い違いを見せた。
 警察犬は失跡現場のパチンコ店駐車場から南側の道路を出て
右左折を繰り返し土手を越えて河川敷に出た。しかし、児童遊技場で追跡不能となった。
 最終地点は十二日午後六時半ごろ、河川敷でゴルフ練習中の会社役員が目撃した、
不審な子連れの中年男の到着場所と同じ。
しかし、この時目撃された二人は土手を斜めに下りており、
警察犬はいずれもこの斜面をたどっていない。

 警察犬がたどったコースは約四百五十メートルもあり、大人でも七、八分近くかかる。
しかもパチンコ店前の道路はこの時間、通行量が多く人目につきやすい。
真実ちゃんは「ロッキー」にこれまで四回来ている。
いずれも駐車場付近で遊んでいる姿を、
景品交換所の従業員や隣接の住民が目撃していることから、
真実ちゃんの行動範囲は駐車場付近とみられる。
 人間の六千倍ものきゅう覚を持ち、
特別な訓練を受けた警察犬がたどったルートと真実ちゃんのこれまでの行動範囲。
目撃証言から推定されるコース。
三つの大きな食い違いは以前、ナゾのままだ。
(1990年5月19日付『下野新聞』2面)



※このように、事件発生当日の深夜に行われた2頭の警察犬による追跡捜査で

判明した真実ちゃんの足取りは、だいぶ複雑で、尚且つ、長距離を辿ったのであり、

目撃者が証言したような単純かつ短距離のルートではなかった。

それゆえに、警察は目撃者の証言を信頼できなかったのだ。

(但し、この警察犬の複雑な動きは、菅家氏による「自白」とも大きく食い違っていた)



■事件発生当時、主婦による目撃証言など無かった

 

 男と少女の目撃者はもう一人いた。松本(仮名)さんという主婦だ。
彼女は警察の事情聴取にこう答えていた。
〈子供については 四歳位 身長一〇〇センチ位 体格中肉 赤っぽいスカートで上衣は、
スカートに比べて明るいものを着た女の子だったのです〉
 学校で美術の先生をしていたというこの女性は一枚のスケッチ画を残していた。
鉛筆で描かれたモノトーンの絵だ。低い位置に、雲が垂れ下がった空。
左側には遠近感のパースがついた堤防がある。
構図中央には広い芝の上を横切る大小二つの姿。
二人は画面左から、右に向かって歩いている。
 大股で歩く男が「ルパン」に似た男であろう。距離があるため顔ははっきりと描かれていない。
男に寄り添うようなスカート姿の少女。二人が向かっている先は、遺体発見現場の方向だ。
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p80)

 

 松本さんから聞けた当日の状況はこうだった。
 薄曇りだった事件当日の夕方、松本さんは幼い子供を渡良瀬川河川敷の公園で遊ばせていた。
近くの芝にはゴルフの練習をしている男性がいた。
「ルパン三世に似ている男」と証言した吉田さんだ。
松本さんはブランコの近くで子供と四つ葉のクローバーを探していた。
ふと視線を上げると、ちょうど雲の隙間からオレンジ色の西日が芝生に差し込む中を、
幼い少女と男が歩いていた。
女の子が、男の人の前後をちょこちょことついて歩いていたんです。自然な形でね。
散歩してるような雰囲気でした。その子供も、安心してる感じですね。
信頼して、ついていっているような感じで歩いてました」
 時間は一八時四〇分くらいだったという。
「男は白っぽい感じの衣服を着ていたと思います。そんなに大柄ではなかったです。
一直線に歩いていく感じですね。川の方に向かって大股で、どんどん歩いてるんですよ。かなり大股でした」
 女の子の特徴は、真実ちゃんの当日の服装と一致していた。
「おかっぱ頭で。赤いスカートが目立ってましたね。上はそのスカートよりもう少し薄い色でした……」
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p134~135)



※この「松本(仮名)さん」という主婦による目撃証言について、

私は真実ちゃん事件発生当時の資料をくまなく読み漁ったが、

このような女性を報じた記事は、いくら探しても、何処の何処にも、

「全くもって何一つ無かった」。

そもそも、真実ちゃんが失踪した時間帯に渡良瀬川河川敷の児童遊技場にいたのは、


三十五歳ぐらいで身長約一八〇センチの男性と幼児の親子連れ(午後六時半ごろ)
②小学校高学年の男女五、六人のグループ(午後六時半ごろ)
③ブランコに乗っていた二十五歳ぐらいのアベック(午後五時半から同六時四五分ごろ)
-の三組は割り出し切れず、さらに捜査を進めている。
(1990年6月2日付『下野新聞』2面)


なのであり、「“女性”と幼児の親子連れ」なんて一組も存在しなかったのだ。

百歩譲って、仮に「犯人による報復を防ぐため」等のプライバシー上の理由により

目撃情報がマスコミを通じて漏洩しないように秘匿してもらっていたのだとしても、

(当初の)吉田さんは

後ろ手に引いており、親子という雰囲気はなく奇妙な感じがしたのでよく覚えている」

「男のシャツがカーキ色だったのは覚えているが、人相などは分からなかった」

と証言していたのであり、

「女の子が、男の人の前後をちょこちょことついて歩いていた

自然な形
散歩してるような雰囲気

「男は白っぽい感じの衣服を着ていた」

という松本さんの証言とは、明らかに大きく食い違っている。


しばらく前に、

足利事件の真相を追っていた日本テレビ系列『真相報道バンキシャ!』

という番組にこの松本さんが登場し、日本テレビの取材班と共に

渡良瀬川河川敷に行き事件当時を回想する、という放送を私は見ていたが、

「あなたは一体、何者なのだ?」

「本当にあの日、児童遊技場に居たのか?」

というのが私の正直な心象である。



■被害者遺族の記憶もあやふや


 真実ちゃんは、自転車は好きだったという。
事件前、保育園の送り迎えは自転車だったのだ。
ただしそれは幼児用のイスをつけた自転車で、そのまま荷台に座ることはできないと言った。
 母親でなければわからないこと。
 私はいくつもの質問に答え続けた。次第に、お互いの事実認識や菅家さんの供述内容との矛盾点、
捜査そのものについての不自然さなどが浮き彫りになっていく。
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p117)

 

 渡良瀬川の現場では、菅家さんの自転車を松田さんに見てもらい、改めて感想を聞いていた。
彼女は自転車の荷台を見下ろしながら言った。
「このままの荷台ですよね。これに乗るのはどうかな?
いつも保育園に行く時はカゴに乗せてでしたからねえ、
荷台に乗ったということは、納得できないんですよ」
(清水潔『殺人犯はそこにいる』p123)



※愛する娘を無残に殺された被害者遺族の方に対して

このようなことを書くのは大変恐縮であるが、

事件が発生する以前、真実ちゃんの母親は「娘を自転車で送迎」なんてしていなかった。


 

 Tさんと主任保母のS・Hさん(二五)らによると、
真実ちゃんは四月初めに富山から引っ越し同月九日に入園。
明るく元気で口調もハキハキし快活だった。
いつもはおもに母親のHさん(三〇)が自分ので保育園に送り、
午後五時ごろには迎えに来ていた。
(1990年5月14日付『下野新聞』2面)


※この文脈で「」と記述してあれば、

それは一般的、常識的に「自動車」のこととしか考えられず、

どう足掻いても「自転車」には結び付かない。

尚、この証言は真実ちゃんが通っていた保育園の2人の保母によるものだが、

このような状況下で保母たちが被害者遺族の交通手段について

虚偽の報告を行う必要性があるわけが無く、

また、2人が揃って「自動車」と「自転車」を見間違えるとも思えない。

愛する我が子の身に起こった事件とはいえ、被害者遺族も

20年近くも前(清水氏による取材時から起算)の記憶は薄れてしまっていたのだろう…



■菅家氏の性格はおとなしい半面短気


 菅家 当時、私は小心者でおとなしくて、いまみたいにきちんと話ができなかったんです。
何か言われるとシュンとなっちゃう。答えることができないんですよ。
しょんぼりしちゃって、パッと反論できなかったんですよね。
 それでいきなり、「お前がやったんだ」って言うわけです。
(菅家利和・河野義行『足利事件 松本サリン事件』p57~58)


 警察の尾行が開始された当時、菅家さんは真実ちゃん事件が発生した時と同じく、

A幼稚園の送迎バスの運転手でした。

つまり、菅家さんは、日常的に幼女に取り囲まれて生活していたことになります。

しかし、子供たちが裸になる場面(水遊び、入浴や健康診断など)で菅家さんが

変な眼で幼女を眺めていたなどということはありませんでした。

(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p36)


同僚
「寒い冬の朝、何度も温かい缶コーヒーをもらった。いい人でしたよ」。
足利市内の幼稚園でバス運転手を務めた栃木県内在住の高齢男性は、
職場で同じ運転手だった菅家さんの人となりを尋ねると真っ先にこう答えた。
「余計な無駄口は一切ない仕事熱心な人。
バスの運転も優しく丁寧で、子供を乗せて走る運転手として最適だったと思う
 九〇年四月から翌九一年三月までの一年間、菅家さんはこの幼稚園で運転手として勤務する。
九〇年十二月から捜査本部が足利事件の重要参考人として菅家さんの行動確認(尾行)
を続ける中、職場の同僚は菅家さんをどう見ていたのだろう。
「無口なので、人によっては、『暗い性格』と受け止めたのかもしれない。
しかし、私はパチンコ好きな物静かな人だと思っていた」
 後に菅家さんが逮捕された九一年十二月、
捜査本部の事情聴取に男性は率直に自分の思いを告げた。
「今でも信じられない気がします」
(中略)
「俺があそこに行こうと誘うと、うん、うんと黙ってついて来るタイプ。
おとなしくて、虫も踏めないような男だった」。
小中学校の同級生でメリヤス会社でも職場の同僚だった同市赤松台の
会社員男性(六三)は、菅家さんの性格をこう振り返った。
(中略)
「冬になると、『寒いね』と声を掛けてくれて缶コーヒーをそっと手渡してくれた。
子供たちにも好かれていました」。
元保母のO・Sさん(四九)=茨城県筑西市=は、
菅家さんの誠実な人柄に好感を持つ一人だった。
(下野新聞社編集局『冤罪足利事件』p48~50)



※菅家氏の人柄について、釈放後の報道では上記のように

「おとなしい」「優しい」「誠実」とするもの一辺倒であるが、

逮捕時の報道では違っていた。



勤務していた幼稚園関係者も
「園児を見る目に、何とも言えない異常なものを感じた」
と証言しており、幼児に対して異常な興味を持っていたことを裏付けている。
(1991年12月8日付『下野新聞』2面)


真実ちゃん事件

難航捜査一気に解決

菅家容疑者 おとなしい半面短気

(中略)

菅家容疑者が借りていた貸家の家主によると、
家賃の滞納はなく盆、暮れには家賃のほかに菓子折りを届けるなど、
きちょうめんでまじめな性格。
近所の人も「目立たなくて、おとなしい人。いつも自転車に乗ってて、
『今日はパチンコでやられたよ』なんてよく言ってた」と話している。
 今年三月まで勤めていた旭幼稚園の関係者は
「おとなしくてまじめなことはまじめなんだけど、
バスを運転中にほかの車が少しでも割り込むと、
窓を開けて大声で怒鳴り付けるというようなこともあったので辞めてもらった

と解雇の理由を説明している。
(1991年12月2日付『下野新聞』2面)

 

 菅家容疑者が借りていた貸家は農家の敷地内に建つ二軒長屋形式の住宅。
四畳と六畳の二間の部屋に一人で十年以上住んでいる。
近所付き合いは全くない。顔もめったに見ない」。
近所の住民は菅家容疑者について、こう口をそろえる。
わずかに交流があるのは同じ敷地内に住む農家の家主だけだが、
家主の家人(七七)は「週末に部屋を掃除しているのをたまに見掛けるだけ」
と言い、「昨日(三十日)も午後六時ごろに家賃を持ってきましたよ」
と話していた。
 貸家と畑を挟んで西隣に住む女性(六五)は、菅家容疑者について
「平日に見掛けたことはない。何をしているのか不思議な人でした」
と話した。
真実ちゃん事件との関連に話が及ぶと
「小柄でやせてて、とてもそんな人とは思えないのですがね」
とまゆをひそめた。
(1991年12月2日付『下野新聞』2面)



※「バスの運転も優しく丁寧で、子供を乗せて走る運転手として最適」

であるはずの人物が、

「バスを運転中にほかの車が少しでも割り込むと、

窓を開けて大声で怒鳴り付けるというようなこともあった」

とは一体、どういうことなのだろうか?

清水潔氏は菅家氏釈放後の報道において

「(菅家氏に対する)警察の内偵捜査を知った園長の腰が引けたから」

幼稚園を解雇されたとしているが、一次資料では

「バスの窓を開けて大声で怒鳴り付けていた」からクビになったのであって、

菅家氏には粗暴な一面もあったのだ。



■真実ちゃんは人なつこい性格だった

 

 菅家さんの「自白」に対する一四の疑問点

 

 疑問一 菅家さんは真実ちゃんを見つけることができるのか

 菅家さんは、景品交換後、駐車場に真実ちゃんがしゃがんでいるのを発見して、
近寄って声を掛けたことになっていました。
 しかし、土曜日の夕刻、国道に近いパチンコ店の駐車場は、
車で埋まっていた可能性が高く、菅家さんと真実ちゃんの間に一台でも車が停まっていれば、
それだけで真実ちゃんを発見できない状況
が現場検証で再現されていました。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p111)

 

 疑問二 真実ちゃんは簡単に誘いに応じるのか

 真実ちゃんは、四歳の女の子としてはしっかりした子供で、
事件の前日にも、パチンコ店の従業員から
「変なおじさんについていってはダメだよ」と言われ、
「絶対行かない」と答えていました。

 《二、四歳八か月の真実ちゃんが、夕暮れ時にパチンコ店にいる父親と離れ、
見知らぬ男の誘いに簡単に応じるとは思えない。
しかし、菅家さんの自白によれば、菅家さんは真実ちゃんに
「自転車に乗るかい」と声を掛けただけである。
菅家さんが自白する誘拐の方法は、非現実的というほかはない》
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p112~113)



※佐藤博史弁護士は、このような疑問を呈しているが、

「真実ちゃんはどのようにしてパチンコ店駐車場から失踪したのか?」

という問題を解くヒントは下記にあると私は考える。



真実ちゃん一家三人は、四月五日に同コーポに入居。
隣室に住むO・Iさん(八〇)は
明るく人なつこい子供だったのに…。まさかこんなことに」
と驚いた様子。引っ越して来た当初は多いときに一日四回も
「おばちゃん」と言ってはOさん宅に上がり込み、
ほおずりしたりしながら遊んでいった。

行方不明となった十二日昼すぎに自転車で出掛けたのが最後の姿だったという。
(1990年5月14日付『下野新聞』2面)


二人を目撃した会社役員は、約十五分後の同六時四十五分ごろ現場を離れ、
土手を越え歩いて二、三分の自宅に戻った。
 同時刻には近くで交通事故があり、パチンコ店駐車場と土手の間にある道路を
救急車やパトカーがサイレンを鳴らしながら通過。
事故処理を終えたパトカーは同六時五十分、現場を離れた。
この間、現場周辺にはやじ馬などが大勢いたという。
(1990年5月18日付『下野新聞』2面)



※ここから窺えるのは、まず、真実ちゃんは人見知りをしない性格であったということ。

もし警戒心が強い性格であったならば、

いくら同性だからといっても、引っ越して来たばかりのアパートの高齢の隣人宅に

1日に4回も上がり込むことは有り得ないであろう。


そして、真実ちゃんがパチンコ店駐車場付近で最後に目撃されたちょうどその頃、

すぐ南側の県道8号には交通事故により「大勢のやじ馬」が存在していたのだ。

パトカーや救急車のサイレンが鳴り響いていたのだ。

明るく闊達な幼児が「パトカー」や「救急車」、「サイレン」を見たり聞いたりしたとき、

どのような反応を示すか?言わずもがなである。



■菅家氏は当初「コンビニでおにぎり一つと缶コーヒー一本を買った」と供述

 

 菅家さんの自白によれば、菅家さんは、真実ちゃんを殺していたずらしたあと、
遅くとも午後七時四五分ころにスーパーに立ち寄ってその日の夕食を買ったことになっています。
借家には冷蔵庫も調理器具もなかったので、菅家さんは、その日スーパーに立ち寄らなければ、
夕食をとることができません。
つまり、菅家さんが借家に行く前にスーパーに立ち寄ったというのはごく自然のことです。
 そこで、警察は、自白の裏付けとして、菅家さんが夕食を買ったことを示す
スーパーのレシートを手に入れようとしました。
菅家さんは、コーヒーが大好物で、食事時や朝食時には必ず缶コーヒーを買うのが習慣でした。
そこで、菅家さんは、自白で
「缶コーヒー数缶とおにぎりなどとお惣菜を買った。総額は千円以内だと思う」
と供述したのです。スーパーの閉店時刻は午後八時でした。
土曜日の閉店間際のお客さんはそう多くありませんでした。
しかし店の三台のレジのレシートの控えを警察がいくら探しても、
自白に符合するものは発見できませんでした。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p54~55)

 

 それにオーナーの妹さんは、私たちの調査目的が
菅家さんの無実を証明することであることを知ったうえで、実に協力的で、
「その日の夜、三台のレジのうち一台を担当していたのは自分だが、
直前に草むらに入り込んで犯罪を犯してきたような人物は見掛けなかった」
とはっきり述べて頂いたことも私たちを勇気づけました。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p56)


※佐藤氏は勝ち誇ったかのような文体で、興奮気味に

スーパー(山清フードセンター)におけるレシート問題(菅家氏の「自白」に基づくと

犯行後の午後8時頃にスーパーで食料を買った形跡が無い)

を書き綴っているのだが、そもそも菅家氏は逮捕直後は下記のように主張していた。

 

 犯行後の足取りについても菅家容疑者は
「田中橋を渡り自転車で借家に帰った。
途中コンビニエンスストアでおにぎり一つと缶コーヒー一本を買った
と供述しており、捜査本部は裏付けを急いでいる。
(1991年12月9日付『下野新聞』2面)


※菅家氏は当初、犯行後に「コンビニエンスストア」に行ったと自供していたのだ。

スーパーの「ス」の字も出てこなかった。

私は1990年代初頭の下野新聞の、足利事件とは無関係な記事もくまなくチェックしたが、

スーパーマーケットとコンビニエンスストアを混同して記述するような記事

(スーパーのことも「コンビニエンスストア」と称してしまう)は何処にも見受けられなかった。

それは些細な問題として置いておくとしても、菅家氏の当初の自白では

おにぎり一つ」と「缶コーヒー一本」しか買っていなかったのだ。


菅家氏の自白が本当に警察による強要だったのであれば、

なぜ警察は、わざわざ自分たち(警察)が不利になるような供述に変更させたのだろうか?

おにぎり一つと缶コーヒー一本であれば会計はせいぜい200円程度であり、

どのような店のどのような時間帯にもそれくらいの小額の買い物をする客はいるのだから、

犯人の「でっち上げ」を行いたいのであれば

当初の供述(200円程度の買い物)のままのほうが悪事を働きやすかったはずだ。



■山清フードセンターの午後三時二分のレシートは無意味

 

 ところが、菅家さんが一審の弁護人に宛てた手紙には、
「事件当日は土曜日で、午後一時半頃実家に帰り、
午後二時半頃実家を出て自転車で借家に向かった。
パチンコ店には行っていない。三時過ぎにスーパーに寄って買い物し、
午後三時半頃借家に着いて、以後外には出ていない」
とありました(本書七七頁参照)。
 私と神山弁護士は、足利のスーパーに赴き、オーナーの妹さんから事情を聞きました。
それによると、警察は、事件当日の昼間のレシートの控えは見ていないこと、
夜のレシートの控えも用済みとのことで戻してきたというのです。
そこで、ロールになったレシートの控えを一本一本見ていきましたが、
夜のレシートには該当するものがなく、
午後三時二分に発行されたレシートにつぎの記載があったのです。
「果物二〇〇円、菓子飲料二五〇円、二八八円、九五円×二」(合計九二八円)
 スーパーの値段の端数は、八が多く、五は珍しいということもそのとき
教えてもらいましたが、通常価格一〇〇円の缶コーヒーは九五円なのだそうで、
時刻が午後三時二分で、総額が九二八円であることから、
このレシートに菅家利和とは書かれていませんが、
これは間違いなく、菅家さんの買い物だと私たちには思えました。
スーパーは当時日曜日は定休日で、土曜日の午後ともなると、
翌週分の買い物をする人がほとんどで、
総額一〇〇〇円以下の買い物は珍しいということも私たちの推測を支持するものでした。
 それにオーナーの妹さんは、私たちの調査目的が
菅家さんの無実を証明することであることを知ったうえで、実に協力的で、
「その日の夜、三台のレジのうち一台を担当していたのは自分だが、
直前に草むらに入り込んで犯罪を犯してきたような人物は見掛けなかった」
とはっきり述べて頂いたことも私たちを勇気づけました。
 自白の信用性の判断基準に「秘密の暴露」があることはご存知だと思います。
警察が知らない客観的事実が自白に現れていれば、それは犯人しか知らないことですので、
その自白は信用できると考えられます。
菅家さんは、スーパーにレシートの控えが残されていることを知らないので、
一審弁護人に、事件当日はパチンコ店に寄らないで午後三時過ぎにスーパーで
買い物をしたと書いていました。菅家さんの自白には裏付けがなく、一方、
菅家さんの否認供述には「秘密の暴露」があったのです。
私たちが、菅家さんの無実は客観的にも証明できると確信した瞬間でした。
 しかし、まさか、それから一五年以上掛かるとは思いもしなかったのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p55~56)


※佐藤氏は、ここで珍妙なレトリックを用いている。

考えればすぐにわかることだが、

菅家氏が1990年5月12日の午後3時2分に「山清フードセンター」で

合計928円の買い物をしたのが事実だとしても、

真実ちゃんが失踪したのはそれから約3時間半後の

「午後6時30分」の出来事なのであるから、

菅家氏が殺人を犯したか否かとは、関係が無いのである。

「(真実ちゃんが失踪した)午後6時30分に山清フードセンターに確実にいた」

とか、

「午後6時30分までにパチンコ『ロッキー』に確実に“到着できない”くらいの

遠隔地(例えば北海道や沖縄)に午後3時2分にいた」

でもない限り、佐藤氏が喜び勇みながら主張している「秘密の暴露」には意味が無い。

はっきり言って「だから何?」「それがどうしたの?」「So What?」である。


それに、先ほども書いたが、菅家氏は当初

「コンビニエンスストアでおにぎり一つと缶コーヒー一本を買った」

と自供していたのである。

どう頑張っても「928円」も掛からない商品を買った、と述べていたのだ。



■児童遊技場近くに放置されていた盗難バイク

 

 一方、バイクは河川敷にある道路で発見された。真実ちゃんの殺害現場とみられる
児童遊技場の四、五メートル南側で、スタンドを立てて放置してあった。
このバイクは失跡現場の「ロッキー」から道路を二本隔てたパチンコ店「ニュー東武2」に
客が乗って来たもので、十二日夕から客が盗難に気付いた同午後九時四十五分の間に、
何者かが乗り逃げした。
 その後、真実ちゃんが遺体で発見された十三日午前、現場にあるのを捜査員が見つけた。
捜査本部は①バイクの盗難と真実ちゃんの失跡時間帯が同じ
②放置場所が児童遊技場のすぐそばで、わざわざ河川敷に乗り捨ててあるのは不自然-
なことから事件に関連があるとみてバイクの指紋採取など鑑識を急いでいる。
(1990年5月16日付『下野新聞』2面)


 ―盗難バイク

 殺害現場とみられる遊技場わきの道路で発見されたバイクは、

「ロッキー」の東約三百メートルにあるパチンコ店で十一日夜、何者かに盗まれた。

事件前日のこの日、バイクの持ち主はキーを抜きパチンコの最中だった。

 パチンコ店から遺棄現場までは約六百五十メートル。

キーのないバイクを押して、だれが何の目的で現場まで運んだのか。

 捜査本部は真実ちゃんの遺体が発見された十三日午前、このバイクを押収。

ナンバーなどから持ち主が分かったものの、

「現場にあった遺留品として事件との関連も否定できない」と、

今でも足利署に保管してある。

(1990年5月19日付『下野新聞』2面)



※真実ちゃんの遺体が発見された当時、

現場付近には「盗難されたバイク」が放置してあったのだ。

当初は「5月12日夕」に盗まれたものとされていたが、数日後の報道では

何故か「5月11日夜」に盗まれたものとして、何故か日時が変更された上に

この後、この盗難バイクに関する情報は突如として途絶えてしまう。

私はこのバイクこそが、足利事件のカギを握っていると推測しているのだが、

それについては後日、述べることにする。


続く。



画像

逮捕当時の菅家利和氏。

取調官に「髪を引っ張られる」等の拷問を受けて自白を強要されたとのことだが、

この短い髪(角刈り)を「引っ張る」ことは果たして可能なのだろうか?…