うつ神ブログ、ちょっと休憩して、トラックバックキャンペーンに参加しちゃいます(笑)。




テーマは、『日なたぼっこ』。


その言葉を聞くだけで、なんだかほんわかした気持ちになりますね(#^.^#)




でも実は、こんな日なたぼっこでさえも、心から安らぎを得られない人達がいっぱいいます。


日なたぼっこしている時、爽やかな風が吹いた時、緑の中を散歩している時、青い空を見上げた時…。


そんな、「幸せって、きっとこんな気持ちのことだろうな」って思える、本来の純な心を取り戻してほしい。


今現在、うつの症状で悩んでいる方が、一人でも多く、自分なりの突破口を見出してくれればいいなと願っています。


そのためにも、この『うつ神ブログ』が誰かのお役に立てることを祈って、これからも積極的に思いを綴っていきたいと思います。




そして、心からの日なたぼっこを、みんなで一緒に味わえますように…☆




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「心を清らかにする」ということは、「心にわだかまりを持たない」ことであるとお話ししました。




『明日のことは思い煩うな』とは、かの有名な聖書にも書かれている言葉です。


お釈迦様も、同じことを言われていますが、同時に『過去のことをくよくよするな』ともおっしゃっています。


過ぎたことをくよくよせず、先のことを思い煩わず、今、この瞬間だけを切に生きること。


これは仏教の極意でもありますが、それ以前に、私達にとってとても大切なことではないかと思います。




…とは言いましても、私達はどうしてもそう簡単には割り切れない、複雑な日々の中を生きています。


過ぎた過去などもうどこにも存在しないのに、心の中ではいつまでも引きずってしまう自分がいます。


今日やり残した仕事が、明日待ち受けているという事実への心配もせずにはいられません。




けれども、今日という一日を、自分の短い「一生」だと考えてみたらどうでしょうか?


もちろん、そう簡単に考えられるはずがありません(笑)。


ご飯を食べて、テレビを見て、一日中ゴロゴロして、お風呂に入って寝る…。


そんな一日はあっても、そんな一生は、絶対にあるはずありませんからね(笑)。




私が言いたいのは、「人は毎日生まれ変わる」ということです。


これは私が勝手に思い始めたことなのですが、人生とは、当然ながらそんな一日一日の繰り返しだと思うのです。


心の中には、消せない傷があったり、未来への不安もあります。


しかし、心の傷は、時間が癒してくれるものです。


未来のことも、その時になってみないと分からないし、今はどうすることもできません。


だから、せめて今日一日は、今日一日分の思いだけをめぐらして、今日一日分の心と身体だけをいたわってあげるべきではないでしょうか。




どんなにいやなことがあったとしても、それは今日限りの煩い事です。


明日に影響を及ぼすことが分かっていても、それは明日の自分が頑張ることです。


そして、明日は明日という一日を精一杯に生きて、明日の自分がそれを癒してあげましょう。




私にも、そんなことはしょっちゅうです(笑)。


けれども最近は、家に帰ると、自然と心が落ち着いている自分がいることに気付き始めました。


決して常に片付いている、きれいなお部屋というわけではありませんが(笑)、ここへ帰って来さえすれば、私は今日一日を終えることができる、と思えるのです。


一人暮らしですが、お料理は苦手なのでいつもレンジで2分のパックご飯とインスタント味噌汁です(笑)。


そんな質素な食卓でも、温かいご飯とお味噌汁を頂いて、好きな音楽を聴きながら、本や雑誌をパラパラめくり、シャワーを浴びて眠りに就く。


もちろんこれは、毎日のお薬のおかげで、今のうつ状態が安定しているからこそできることではあると思います。




…でもそうやって、その日の自分をリセットしてあげること、心のわだかまりを常にほぐしてあげることが、毎日を切に生きるための秘訣とも言えるのではないでしょうか。


人は、毎日生まれ変わる。


だから、『今日一日』という短い人生を頑張ろう。

瀬戸内寂聴さんのご本によりますと、お釈迦様は、このように悟られたのではないかということです。


心を清らかにすることによって、煩悩がなくなる。


人を憎まなくなり、人を愛することしかできなくなる。


人に施し(ほどこし)を与えたくなる。


その気持ちだけを育てていけば、人は苦しまない…と。




そして、中でも人を憎むことは、一番苦しいことだと言います。


単純な考え方ではありますが、人を憎まないためには、やはりその人の良いところだけを見るより他ないのだと思います。


しかし、そんなに単純に割り切ることができないのが、私達人間です。


そんな憎い相手のために、どうして私が辛抱して仏様のような心で受け入れてやらなきゃいけないの!?って思ってしまいます(笑)。


しかし、寂聴さんのご本に、こんな言葉があります。




『人に対して怒りがわきおこるのは、自分なら決してそうはしないという気持ちがあるのです。


そのためその瞬間、相手を見下す気があるし、その無知や破廉恥(はれんち)に対してがまんがならないという気があるのです。


この気持ちの中には思い上がりがあると思います。


自分の中にだって、汚い心や、悪い料見は全くないかといえばじくじたるものがあるわけです。』




…そして、同じ「怒り」や「憎しみ」の中には、恋愛にまつわるものも多くあります。


恋愛のことを、仏教では『渇愛』(かつあい)と呼ぶそうです。


喉が渇いた人が水を欲しがるように、限りなく相手に愛を求めるからです。


愛にはいろいろな形があり、神様の愛や家族の愛などは、『慈悲』の心と言えるでしょう。




恋愛も、形の上では「愛」です。


しかし、この恋愛…イコール渇愛とは、愛した瞬間から苦しくなります。


それは結局、他の人を愛しているのではなくて、自己愛だからなのだそうです。


自己愛とは、相手に報酬を期待し、見返りを求めます。


渇愛とは、相手を自分のものにしようとする独占欲であり、嫉妬が伴います。




寂聴さんは、愛とは相手の欲することを与え、相手の欲しないことを与えないことだとおっしゃっています。


そして、自分が好きだから、そうすることが嬉しいから、ただその人を愛し、その人のために尽くす。


でも、その心の底に報われたいという気持ちがある以上、それは純粋とは言えないのです。




けれども私達人間には、そのような“無償の愛”など、とうてい持つことはできません。


しかし寂聴さんは、このようにも言われています。




『とても、生きているうちに悟りなど得られないと思っても、あきらめず、自分の苦しさの根は渇愛より生じているのだという反省が出来るなら、もうすでに私たちは目に見えないみ仏の掌(うてな)の上にすくいあげられているのではないでしょうか。』


( 講談社 瀬戸内寂聴 『寂庵説法』より )




…最後の「み仏」の部分に関しては、信じる・信じないがあるにしても、この言葉の意味は、きっと皆さん分かって頂けると思います。


人を愛することは、苦しい。


でも、そのどうしようもない苦しさをくぐり抜いて、渇愛を脱することができた時、人は初めて本当の愛を授かることができるのではないでしょうか。


なぜなら、その人にはその愛を受け入れるだけの大きな器が備わったのだと思うからです。