寂聴さんが、本気で死を考えた時、「死ぬ気なら何だって出来る」という心の声を聞きました。
そして、出家という道があるということを、ご自分の中に見出されました。
御著書の中で寂聴さん自身は、その時自分がなぜ出家という道を思い立ったのか、実はよく分からないとおっしゃっています。
しかも、他に出家をされた方々も皆、話を聞くと、実は自分でも理由がよく分かっていないというのです。
しかし、寂聴さんがそんな絶望感の中で、心の中の救いの声を聞いたこと。
それに私自身、このままどうにかなってしまいそうなくらいに辛い思いをしたけれど、なんとか立ち上がることができた時のこと…。
それもすべて、寂聴さんが書かれたこの言葉によって、私ははっと気付かされ、納得することができました。
『医者に見放された患者が、信心して健康になったという例もあります。
しかしそれは、信心したから霊験で救われたと短絡的に考えるのはどうでしょうか。
医者に見放された患者は絶望的です。
絶望の中で人間のはからいの外のものにすがる素直で純な心が生まれ、念が通じれば心の絶望に光がさし、生きようとする活力が生まれて、人間の中に眠っていた自然治癒力が活発になってくるのではないでしょうか。
もともと人間は、命と共に自然治癒力を与えられているのに、文明が進むにつれ、その力を見失ってきているのです。』
( 講談社 瀬戸内寂聴 『寂庵説法』より )
そう、『自然治癒力』という素晴らしい力を、私達は本来持っているのです。
今ほどお薬などが豊富でなかった昔の時代の人々は、自分自身の力で病気を治せていたといいます。
どんどん便利なものが増え、形あるものしか信じなくなってしまった現代の私達は、そういった目には見えないものの存在に気付きにくくなっているのではないでしょうか。
絶望のどん底に堕ちて、初めてピュアな心が生まれる。
人間の手によるものではない、何か形のない、やさしい大きな力に包み込まれたいという、純な思いが生まれる。
そんな素直な気持ちこそが、何よりも自分自身を救ってくれる、ずっと探し続けていた守り神なのではないでしょうか。