寂聴さんが、本気で死を考えた時、「死ぬ気なら何だって出来る」という心の声を聞きました。


そして、出家という道があるということを、ご自分の中に見出されました。


御著書の中で寂聴さん自身は、その時自分がなぜ出家という道を思い立ったのか、実はよく分からないとおっしゃっています。


しかも、他に出家をされた方々も皆、話を聞くと、実は自分でも理由がよく分かっていないというのです。




しかし、寂聴さんがそんな絶望感の中で、心の中の救いの声を聞いたこと。


それに私自身、このままどうにかなってしまいそうなくらいに辛い思いをしたけれど、なんとか立ち上がることができた時のこと…。


それもすべて、寂聴さんが書かれたこの言葉によって、私ははっと気付かされ、納得することができました。




『医者に見放された患者が、信心して健康になったという例もあります。


しかしそれは、信心したから霊験で救われたと短絡的に考えるのはどうでしょうか。


医者に見放された患者は絶望的です。


絶望の中で人間のはからいの外のものにすがる素直で純な心が生まれ、念が通じれば心の絶望に光がさし、生きようとする活力が生まれて、人間の中に眠っていた自然治癒力が活発になってくるのではないでしょうか。


もともと人間は、命と共に自然治癒力を与えられているのに、文明が進むにつれ、その力を見失ってきているのです。』




( 講談社 瀬戸内寂聴 『寂庵説法』より )




そう、『自然治癒力』という素晴らしい力を、私達は本来持っているのです。


今ほどお薬などが豊富でなかった昔の時代の人々は、自分自身の力で病気を治せていたといいます。




どんどん便利なものが増え、形あるものしか信じなくなってしまった現代の私達は、そういった目には見えないものの存在に気付きにくくなっているのではないでしょうか。




絶望のどん底に堕ちて、初めてピュアな心が生まれる。


人間の手によるものではない、何か形のない、やさしい大きな力に包み込まれたいという、純な思いが生まれる。


そんな素直な気持ちこそが、何よりも自分自身を救ってくれる、ずっと探し続けていた守り神なのではないでしょうか。

最近、いじめを苦に自らの命を絶つという、青少年の悲しいニュースが続いています。


その苦しみや辛さは、本人にとって計り知れないものだったのだろうと思います。


「いじめ」という、自分一人の力ではどうすることもできない問題の末、そのような結果になってしまうことについて、今、私はここで何と言っていいか分かりません。


「いじめ」の苦しみと、「うつ」の苦しみは当然違います。


しかし、たった一つの尊い命について考える時、その苦しみには共通するものが生まれるのではないでしょうか…。




うつ病の方の中には、ついには死を考えてしまうほど、追い詰められてしまう人もいます。


私は今まで、もうこれ以上辛くなることはできないというくらい、失望のどん底に落ちて、まるで抜け殻のような状態になってしまったことが何度もありました。


このままどうにかなってしまっても、おかしくないと思うほどでした。




しかし、私は今まで一度たりとも、「死にたい」と思ったことはないのです。


ほんの一瞬、この世から消えてしまいたい、しばらくの間、人生をお休みしたい、などとは考えたことがありますが、「死にたい」とだけは、決して思ったことはありませんでした。


なぜなら、この世に生きていて何が一番怖いかと言えば、それはやっぱり「死ぬこと」だと、自分で分かっていたからです。


自ら死を選ぶことができるくらいなら、むしろこんなに悩んだり苦しんだりすることはないんじゃないかと思うくらいです。




瀬戸内寂聴さんは、51歳の時に出家して尼僧になられるまで、小説家として大活躍されていました。


しかしある日、そんな申し分のない生活の中で、突然「虚しさ」に襲われたのだそうです。


お仕事は再来年の分までびっちり予定が入っていたものの、小説家としてのご自身の限界を感じられたのか、自分がこれまでに得てきたものは、こんなものだったのかという、ご本人なりの虚しさを感じて、絶望的になってしまったのだそうです。


寂聴さんはその時、本気で死を考えたといいます。


生きる喜びや、働く喜びを失った人間は、自殺する他に道はないと思われたのだそうです。


しかしその後で、寂聴さんはこのようにおっしゃっています。




『わたしはひそかに死の支度さえはじめました。


その頃のいつだったか、私はある日突然、死ぬ気なら何だって出来るという心の底の誰かの声を聞きました。


それなら他にどんな生き方が出来るだろう。


私は何日も考え迷い、また考え、しらけきった自分を虚無の淵からぬけ出そうと考え抜きました。


幾日すぎたでしょうか、ある日、ふいに天の声のように、私の中で出家という道があると何かが囁きました。』




( 講談社 瀬戸内寂聴 『寂庵説法』 より )




その、心の声というのが、うつに悩む私達にとって、とても重要なキーワードになってくるのです。


絶望の淵に陥ったはずの時、なぜ、反対に生きる気力が湧いてきたのでしょうか。


次は、それについてお話ししていきたいと思います。


それは私にとっても大好きな、かけがえのない大きな発見でした。

私の言いたいことは、このブログの今の時点では、まだまだ追いつきません。


気持ちばかりが先走ってしまいます(笑)。


でも、少しずつ、少しずつ、何の抵抗もなく人の心に馴染んでいけるように、これからも慎重にゆっくりと、私なりの発見を綴っていきたいと思います。




最近、私の心が安定しているのは、まずは第一にお薬の働きがあるからだと思います。


そして次のステップとしてやっと、日常生活を楽しむ心のゆとりが生まれています。




先日の記事で、「人は毎日生まれ変わる」と書きました。


それは、その日一日の自分に限り、思う存分いたわってあげようという、私なりの発想です。


それを、毎日生まれ変わる自分が、毎日自分に対してしてあげるのです。


いわばそれは、自分自身と真剣に向き合い、語り合う日々のことなのです。




以前、私にとって「うつ」とは、一生付き合っていくものだということを書きました。


治る、治らないの問題ではなく、今でも私は毎日、心の中に「うつの種」の存在を感じています。


ちょっとでも、うつっぽい症状が目を覚ますと、私はそのサインを寛大に受け止め(笑)、認めるようにしています。


今はきっと休みたいのだ、あまり頑張るべきではないのだ、という心の声を、素直に聞き入れるようになりました。




…それを私は、「私の中の神様」の指示だと考えるようになったのです。


つまり、「うつ」の正体は、本当は神様なんじゃないか、って。


「うつ」は悪い奴なんかじゃない。


「うつ」は友達。


もしかすると、『鬱ノ神』なんて名前があるのかもしれない(笑)。


なんだか貧乏神の仲間みたいでイヤだけど(笑)、そうじゃない。


やっぱり、「うつ」は神様からの贈り物なんじゃないかって、私は考えるようになりました。


そして、そう思えるようになったきっかけも、私にはやはり、仏教との出会いが大きかったのだと思います。




…ここから少しずつ、やはり瀬戸内寂聴さんのご著書を参考にしつつ(笑)、神様や仏様に関するお話もしていきたいと思います。


寂聴さんのご本をちょこっと読んだだけの、仏教の基本の「き」すらも分かっていない私ですが(笑)、あまり『仏教』とかしこまって考える必要はないように思います。


私達日本人にはきっと一番馴染みやすい、決して間違ってはいない当然の教えしか、仏教では説いていないのです。


私達は知らず知らずのうちに、毎日の中で、何らかの形で、仏教と触れ合いながら生きているはずです。


信じる、信じないは人それぞれの自由ですので、あくまでも情報の一つとして、役に立つと思えることだけを心にしまって頂ければと思います。