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転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ

徒然なるままに日々のあれこれやらを綴ります。

今夜も不幸自慢、退屈自慢のお客さんが集結したw

割れには退屈している暇はない!皆無!
もとい我。

何故か、する事いっぱいあればそれに集中しれ、と言う事だ。
何故集中出来ないか?
それは幻想を生きているからである。と、ニコ生で言いたかったのである。
幻想とは何か?

それは言うまでもない。自分と言う幻想と他人と言う幻想の間でしか生きていないから。
そもそも、本来は自分は幻想だ。
それは先に書いたミラーニューロンでも書いた。しかし方便として言えば、どうしても凡夫には自分がある。凡夫と言う言い方がひどいと言うなら人間のほとんどは自分と言う何かが有る、と実感している。

しかし、退屈なのは先に書いたように自分と言う幻想、自分の理想と言う幻想が本来の自分、だと言う錯覚に支配されているからだ。
ならば、自分が今ここで何をしているかをもうひとりの自分で言語化してみれば良い。
退屈だと感じるなら自分は今退屈だ、と心の中で言語化するのだ。
何をしている時もそれを続けるのだ。

それに集中したらどうだろう?
退屈している暇など無い。それほど心は忙しく飛び回ってあれこれと思考する。
それを追い、それを言語化する。
ハッキリ言って、3日も続ければ馬鹿らしくなるだろう。もしかするともう少し続くかもしれない。
すると何が退屈なのかすら言語化されるのだ。

そして断言するが、退屈してりう自分などは実は退屈したい、と言う甘えだと言う事、あるいは自分とは単なる感覚でしかない事を識る。
言語化は言語化されるべき事に変化していく。
つまり、その時、今ここですべき事が言語化される。

もっとそれが進めば言語化する暇もなく今ここですべき事に集中せざるを得ない自分がいる。
その時、不幸とか退屈とか、疑問すら介在する事の無い今があるだろう。
それがフローな状態だ。
そこには自分を意識する暇すら無い今がある。


合唱



人間の脳には先日も書いたように恐ろしい深みが存在する。

最近脳神経科学の分野ではミラーニューロンの存在が確認された。ミラーニューロンとは共感覚ニューロネットワークの事だ。

誰かがしている事をそれを観ている貴方の脳は共時的に共有している。

ミラーニューロンが文明を生み出した、あるいは人類とはこのミラーニューロンの発達自体の存在発達が生み出した、と考える事すら出来る。


ほとんどの動物はダーウィン的に進化していく。

ある行動がその種の普遍的行動になるには恐ろしいほどの繰り返しと時間を要する。

しかし例外的に類人猿だけは異なる。類人猿の行動はシンクロニシティーとして広がる。その中でも人は圧倒的に学習及び普遍化が早い。それはミラーニューロンの数が桁違いに多いから、だ。ミラーニューロンはまさに他の行動を共有する神経細胞的ネットワーク・システムであり、学習と深化を促すネットワークだ。


例えば貴方の腕の神経ネットワークを司る脳神経叢に麻酔をかけ誰かに触られると貴方は存在するはずのない触覚を実際に感じるのだ。それは貴方の脳に共感ニューロンが存在し、誰かが何かをする時それを同時に共有していると言う事だ。実際には脳以外からの神経インプットがその共感を打ち消す。でなければ我々は自己と言う幻想を持てないだろう。

しかし脳の中では自他の区別は存在しない。


様々な感覚が我々を切り離したり、あるいは共感させる

人間の脳の世界で起きている事のほとんどが、こうしたネットワークの構築と切り離しだ。如何に彼が孤独でありたいと願おうと、あるいは共にいたいと願っても、同じ事が脳の世界では起きている。感覚が切り離された脳はネットワークのシステムであり、それは空間を隔てて他者のネットワークとも共有される。この切り離しの機能の大部分は左脳と感覚入力が行う。


何故人間の赤ん坊はほとんどの哺乳類の子供より未発達な状態で生まれるのか?

それはミラーニューロンを発達させるのに最適な感覚野の未熟な状態だからなのかもしれない。脳と感覚野が切り離された状態で生まれた子供は神経ネットワークの世界で発育し始める。親の感情や視覚に入力されるほとんどの情報はミラーネットワークの発達と共に共有されて拡大成長を促される。等比級数的にミラーネットワークは発達し、学習も拡大していく。やがて入力と運動野が統合されると共に自我が芽生え、自己が発生するのだ。


しかし成長が停止しても脳のネットワーク形成は最後の時までとどまる事はない。このネットワーク構造には本来、自他は存在しない。つまり、人とは程度の差こそあれ、同じコンテンツ、によって具象化した自己と言う幻想に過ぎないのである(ここ極論)。



合唱






脳は単独の計算機ではない。脳髄そのものですら単独のタスクではなく、マルチタスクであり、あるいは機能的には多層的な計算機だ。
それらは単独で受動する刺激に対して起動し、反応し、計算を行う。
ある刺激を受けるとそれら全ての計算機が関係する全てのそれぞれにおいてそれぞれのタスクを実行する。

その時、その中心に有る、私、と呼ばれるような中央演算器は存在しない。
「私」が現れるのはそれぞれの演算が終了し、関係(反応に応じる)するタスクが協議を始めた瞬間だ。それらのそれぞれのタスクの最終的局面において、決定が成された瞬間にはじめて認知、感情、意識は生じる。
これが「私」と呼ばれる物だ。


それまで「私」はどこにあるのだろう?
それは過去にある。記憶の領域に現象結果としての結論が生じた時、つまり「今、あるいはあるがまま」が過去に過ぎ去った時、「私」はそれらの統合された結論を言語として過去の領域に保存、あるいは捨てる道具として機能を始める。




私とはこれら言語化される以前の脳内のあるいは肉体全体に広がる部位的計算機の全て、あるいは何処か量子で継続された無意識化の膨大なレコードから言語と言う意識の表面に遡上した一瞬の発光現象だ。
意識のクオリアの問題はこのように、縁起によって、因果によって、業によって形成される。
「私」の自由はそこには存在しない。

「私」個人の全ての原因を探求しても、「私」が何かをする事の論理的原因を認知する事は出来ない。何故なら「私」の行動、思考は「私」と「私』以外の全ての存在と分離しがたいからだ。
ある現象はある現象の主人公だけの原因から現象化する事は無い。
全ては「私」と隔てられない全ての関係性との相依に依っているのでありそれは「私」自身においてもそのように生じているからである。

故に、私と言う幻想は存在しない。同様に他と言う幻想も存在しない。
しかし何故我々はそれを自覚し得ないのだろう?
自覚しないのではない。
ある限られた枠の中で生命を存続するためには幻想の自己、と言うクオリアがある程度必要とされるからだ。でなければ個の存在を継続させる原始的、量子的、あるいは電子的結びつきすら幻想だと言う事実に行き当たってしまう。





そこで過去、エピソード記憶であるニューラルネットワークの組合?は組合組織を自己である、自我である、と結論付ける。しかしそれでもそれは常恒の自我としては働かない。何らかの刺激が生じた時初めてそれは「自らを主張」する。
それは能動的思考、能動的意識を主張する。
しかし勿論、それは単に刺激によって引き起こされたものでしかない。

そしてその能動的だと主張する反応の形式すら自己選択によるものではあり得ない。それはまさに、それがそのように反応するように様々な過去によって形成された反応でしかない。
それが「私」「自我」「自己」と呼ばれている物だ。

私はない。
それは私ではない。
2500年前、それを明らかにした覚者に敬礼し合唱します


合唱
台湾は忙しいが、なるべく瞑想はする。
数息観を続け、呼吸を数える段階も過ぎると呼吸を見つめる念だけに成る。
言葉はそこになく、念だけを見つめる?認知が全てになる。

これはつまり、言語中枢である左脳が沈黙するという事なのだろう。
そこからは自他の無い拡張が存在を包含し、存在が沈黙を包含する。つまり論理の外側に自分だと規定していた空っぽな何かが回帰するのだ。

目を閉じていればその拡張は意識の領域を包含し、意識はそこで自我を置き去りにする。しかしそこでは未だ、言葉は消えていない。
消えていない言葉すら沈黙すると禅となる。
そこでは本質のみが在り、分節される私はここから席を譲り、止まる。

「私」を残して内に向かえばそこでは観が生じる。
止から観に向かえばそれは自我を構成する様々な要素を観る事となる。
観る事はそこにある凸凹を観る事にもなる。

私と言う此の瞬間の発光現象?が如何に多くの凸凹で荒れ果てているかを発光現象は識る。
私はそれらの凸凹を識る事で均していく。


とりあえず、沈黙こそがそれら全ての源泉に触れる鍵だ。
常にざわめき、語り続ける過去の蓄積、言葉から脳を解き放てば良い。
そこから沈黙の内で止するのも観ずるのも「私」ではない。


合唱

サービス貿易協定は調べれば調べるほどに恐ろしい協定になりうることが分かる。しかしその原因となるものを総統にしたのは台湾の人たちなのだ…

本来的に、これはウクライナでのヤヌコビッチ排斥クーデターと異なるところがない。しかし今回抗議の主役となったのは所謂大人ではなく、多分馬総統を選んだ選挙で投票する年齢になかった学生である。本質的には、それでも民主主義とは一定期間の施政権を候補者に付与する行為なのだ。


民主主義とはなんと恐ろしい物であろう。

馬総統はそもそも大陸出身者であると言う。大陸出身者の馬が大陸に自国を明け渡そうとしている。こういう時も民主主義とやらは正義なのだろうか?果たして馬を総統に選んだ台湾国民は今、何を目にしているのだろう?学生たちの抗議は果たして有効なのだろうか?金曜日に要求した回答?なるものは結局日曜日深夜3時、返されていない。


民主主義は恐ろしく愚鈍な結果すら生み出す。だからといって今、それに代わる善き物は見えない。共産主義と言うモンスターは今も何処かで生き延びているようだが、それは選択肢に載せられない。そもそも、台湾学生の抗議の如き熱さを持たない日本も民主主義の愚鈍の脅威に今現在晒されているのだ。

4月消費税、TPP、移民受け入れ、リストラ奨励金…


全く台湾の現実は日本の現実なのに、未だに台湾と異なりこの国では気付きすら出来ない学生と大人が圧倒的なのだ。支那の脅威は台湾だけのものでは当然ない。それどころか、実際は国家としての米国だって日本の友人であるかどうか定かではない。

最も恐ろしい敵は常に身近にいる。友だと信じた人が実際は友では無かった等というのは何処にでも転がっている話である。政治家とて当然例外ではない。むしろ政治家などは裏切り者の代表であり続けたのが歴史の事実である。


今日もテレビで台湾について報道される事は無かった(あったらしいが行政院のイザコザ)。

多分、事態が完全に沈静化するまで報道される事はないだろう。沈静化、とはつまり支那にとって都合の良い事態の収束に他ならない。つまり、日本のジャーナリズムはそういうものでしか無い。そう言うものでしか無い、事にすら日本の圧倒的多数の国民は気づいているだろうか?


【ニコ生】 台湾立法院(国会)を学生らが占拠 生中継 http://nico.ms/lv173117558


合唱

「ロシアが悪い、プーチンが悪い」は本当か!? クリミア編入騒動で浮き彫りになる西側の傲慢とダブルスタンダード」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38736 川口マーン惠美


「11月、EUは、EUへの加盟を餌に、ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領に、その条件となる協定への署名を迫った。まず、これがあまりにも稚拙だ。ロシアを完全に無視して、ウクライナをEUに引き入れようとする計画が上手くいくはずがない。ロシアはそもそも近い将来、EUに対抗するため、周辺国を統合して、非関税の通商同盟を作り上げようとしている。そのときには、ウクライナが重要なカギとなる。

つまり、ウクライナがEUに入り、NATOに加盟させられるのを、ロシアが指をくわえて見ているはずはない。そんなことをすれば、通商同盟はおろか、ロシアそのものが、早晩、消えてしまいかねない。」上記記事より


EUに陰りが出て既に3年近くが経つ。否、リーマンショック以来の経済的下降が日本人には中々伝わらないようだ。アメリカも同様である。いや、アメリカは金融緩和などの政策によって盛り返しているのでは?

そうではない。アメリカは先進国の経済的成長の歩留まりによってインフレを維持出来ない瀬戸際に立たされている。それはこれまで成長を前提にしてきた西側諸国に共通の病弊である。日本も例外ではない。他の先進国に比して被害が少なかったのはまさに失われた20年の僥倖でしかなかった。


ウクライナはロシア封じ込めとEUの現代的戦争(経済的な)の狩場にされようとしている危機感に常に晒され、その橋頭堡であるEUとの境界であったウクライナの政権クーデターはその最終的目標へのチェックメイトに等しいものですらあったのである。


では日本はどうだろうか?

日韓問題の本質は日韓の問題ではない。それを端的にあらわしているのは3月22日に報じられたアーミテージの発言に表れている。

「日本の歴史問題に関する態度が韓国のみならず日米間の問題である」とすら語っているが字面通りに受け取るのは馬鹿げている。米国は日本をウクライナにおいてロシアを脅迫したのと同じように、歴史問題を理由に束縛したいのだ。しかしアーミテージだけがアメリカの代表的意見ではないのも事実だ。


アメリカの支配層の一部は既に世界の覇権国家である立場が結局米国自体の弱体化を促進すると考えている。それらの意見の一方は支那にアジア覇権を与えるのと同時に支那にその見返りとしてしきんを 注入することで利益を得る事を意図している。一方は日本に独自防衛を促し、そこから利益を得る事が論理的にかなうとしている。アメリカは決して一枚板ではない。

しかし一枚板ではなくても共通する事は世界の混乱において利益を回収しようとする勢力が国家の枠に収まらない層であり、彼等にとってはどのような事態が起きようと自らの利益さえ確保されれば良いのである。


その一報でウォール・ストリートでのデモのような、金融資本主義による国境なき利益の集中に嫌悪を持つ人々が拡大している。民族や種族による自治と経済の運営こそが独立国家にとって追求されるべきものだと言う主張だ。

反グローバル主義はこれから台頭していくだろう。しかし日本国民はそのような現状についての認知度が極めて低い。


続くかな…

仏道とは無縁に、瞑想とも無縁に世界の基本法則(世俗の)の動画をシコシコ作っていた所に台湾の立法院占拠が始まって中断している。

これは実際、日本と深い関係のある事件なのに日本の主要メディアの報道は完全無視に近い状態が続いている。
地政学的にアジアの最大要所は実は日本ではない。日本にとって朝鮮有事は実際は大した問題ではないかもしれない。が、台湾は違う。
台湾が友好的でかつ、民主主義国家であり、西側の民主国家であるのは支那の脅威の最大抑止力なのだ。しかし勘違いしてはならないのは、ここにも金融資本の存在が色濃く見える事だ。

世界の金融資本、あるいはグローバルコングロマリットは既に様々な所で覇権の分散化が避けがたい方向にあるとここ数年考えられてきた。つまり、世界の覇権は支那とアメリカが支配するのだ、と言うものだ。アジアは支那が覇権を持ち、それ以外の国家はアメリカがコントロールすると言うものである。その裏付けは当然核戦力と軍備であり、その両方を兼備していたのは支那とアメリカだったからである。
だからアメリカは現在、台湾で起きている事に関心を払っていない。むしろクリミア情勢の方がアジア以外の覇権を保持しようとするアメリカにとっては重要なのは当然だろう。

ここにもこれからうpしようとしている金融資本の問題が内在している。
しかし此の文では台湾立法院の問題が収まるまで目を話せそうもない。

台湾加油!


合唱


シリーズ化したりする。ので見てねwHDサイズなのでようつべで観たほうがちゃんと見えます。ニコ動にもあげました。


合唱

昨夜は久しぶりに中身のあるw政治系の放送をした気がする。

内容が金融に関する事だった。


はるか以前にミクシに書いた事がある。国家が通貨を発行しない限り(前提条件は政府が国民の為にに機能する事)国民は通貨を使用(もらう、払うの両方)するたびに債務を負う事になる。

債務、と言うと実感がわかないだろうが、言い換えると適正なマネタリングベースで通貨自体が商品引換券としての機能を果たしえないシステムが中央銀行システムには内在する。

もし仮に中央銀行が国家の商品代替引換券の流通と言う意味において通貨を発行するなら、中央銀行は常に金融資産と債務で±0に限りなく近い状態の経営状態であるべきなのだ。


しかし現実には国家、あるいは国民の生活状態がいかなる状態であろうと、常に中央銀行は黒字運営される。デフレであろうとインフレであろうと、先進国の中央銀行は黒字経営なのだ。つまり、中央銀行は国民の生活とは無関係に黒字経営を目指す事を意味する。

それをもっと端的に言えば、中央銀行は国民と乖離した存在である事を異常な事だと認識しない、あるいは関係ないと表明している事になる。

そこで国家信用がどうとか中央銀行システムが、と言うのは非論理的である。


通貨とは商品取引のための代替商品である。

この原則は決して何主義であろうと揺らいではならない。しかし現実は異なる。それは中央銀行がそれ自体の損益によって経営されるからである。以前はしかしまだマシであった。金本位制の時代は通貨は金の価値によって裏付けされていたからである(問題は変わらないが)。

現在は裏付けなき紙切れである通貨自体が商品化している。中央銀行システムの最大の問題点は中央銀行に出資する少数の「民間」に利益を還元するシステムである事だ。それは言うまでもない金融企業である。


ここで言う金融企業には当然銀行が含まれる。

銀行は本来、通貨が適正な意味で発行される時預金を債権として貸し付ける利益によって利益を得る。しかし中央銀行制度においてはそうはならない。

銀行は中央銀行からなされる融資を国民に貸付せずに運用してしまえる。実際、通貨が商品である以上そのほうが大きな利益を生むのだ。結果、如何に中央銀行がインタゲをしようと通貨が国民に供給される事はない。むしろインタゲするほどに銀行は資金を貸付運用ではなく金融商品運用の為に運用してしまう。


圧倒的な高度成長時にはそれでも通貨の供給は民間に流れるが、安定成長に入ると徐々にその流動性は遅延し始める。1907年、この事で世界同時金融危機が生じた。

その対応の為にアメリカはウイルソン大統領時代、FRBを設立した。しかし金融危機の為に設立されたFRBの創立メンバーは金融危機を引き起こした金融家なのだ。もっとおそるべき事に、彼等自身は金融危機においていかなる損失も出していなかった。

金融危機はむしろ国際金融家たちが演出したものですらあったと言えるのである。


以来、世界中の中央銀行の中心としてFRBは運営されている。

日本も例外ではない。毎年世界の中央銀行は堂々と会議を開き、その年の世界の通貨供給量を決めているのだ。

勿論、そんな事は政治家であれば誰しも理解している。

遡れば、この問題に異議を発したのは同じアメリカのリンカーン大統領であり、彼は国家で通貨を発行した。リンカーンのその後は誰もがご存知だろう。もう一人、誰もが知る大統領がそれをした。ドル紙幣の発行者の欄にユナイテッド・ステーツと変えただけだ。しかしその大統領は人々が見守る中暗殺された。ケネディー大統領である。政府発行通貨はその年のうちに回収された。


同様のことが世界中で起きたし、今も起きる。

通貨を国家が発行する事を許さない勢力が存在する、としか言い難い。中東や南米やアフリカで通貨危機や政権転覆やクーデターが起きた時、まず観るべき物はその国家の通貨の発行者が誰か?なのだ。

ひとつ予言的な事を書こう。プーチンは暗殺される危険性が大いに高い。


このおかしなシステムが我々が言う金融資本主義の本質である。

富はどこか暗黒のような存在に常に集中していく。通貨自体が商品である資本主義は常に、富の集中を生む。これはそうあるからであり、それは我々が認知しないからでもある。

このシステムにおいては、暗黒の存在自身ですら安全ではあり得ない。全ての存在は崩壊を織り込み済みで成立するからだ。勿論、対応策はある。実業を重んじる事である。

実業であるかぎり、この破綻のシステムによって破綻する事は無い。しかしこのシステムで資金繰りをすれば別なのは言うまでもない。


と言う話を、ここまで整理してではなかったが放送で話した。もっと言うべき事、書くべき事はあるが疲れるwww


勿論、宗教人間である私なのでこれらのシステムが実は宗教である、と言う事は言明した。金融教と言う最も悪しき宗教だ。その神は通貨であり、使徒は金融資本家やグローバル企業であり、コングロマリットであり、奴隷は無知なる全ての人間だ。吐き気のする唯一神新興宗教が金融資本主義なのである。


それは国家の破綻すら折込み、道徳は富の独占であり、律法は利息である。

人はしかしこの恐るべきものの存在自体にすら気づかずに暮らすのである、自分の、あるいは子供の、子孫の破綻も知らずに・・・



合唱

雑務に追われ、仕事に疲れ果て、心に惑う生にあっていつ孤独が訪れる?


用がなくとも心はざわめく。

求めるものが無い事におそれを抱く。

貪瞋癡は常に背中を覆う。


たった5分でも、一人である事は難しい。

一人暮らしても心は一人ではいない。

自由だと言っても束縛は消えない。


過去を悔いて、明日を憂いて、今に費やす自分は居ない。


瞑想?

馬鹿らしい。誰かに頼れば良い。神や仏や家族に依存して忘れているのが楽だ。

1分も念は続かない。

10秒も続かない。

5秒も…


心はいつも昨日や明日に飛び回る。

うんざりするほど、生きるのはヤヤコシイ。

人生の成功?

世界1の金持ちももっとも悲惨な貧困者も同じだ。今はなく、昨日と明日だけがある。


救い?

酔い忘れている時だけがそれだ。

しかし束の間にそれは過ぎ去り、また生が始まる。


人はこのように生きる。

理由などない。

それはそうであり、これはこうだからだ。

思考は遊ぶ。思考の遊びは長く続く。

しかしそれとて、永遠には続かない。


何もかも、求めるものは得られない。

得た時、すでに心は次に飛び移る。

果てしなく…


知る事は隠す事。

言葉は閉ざす事。

生は退屈の塊。

心は凡庸の塊。


そうしてますます、笑うものは小さく凝縮され、固まり、重くなる。

迷い無きものは幸いである。

幸いであれ。

安らかであれ。

得難きは無明であり、それは既に得られている。


得難きは光明であれ。

しかし絶望の果てを超えた沈黙だけがそこに至る。

最も得難いものは、沈黙である。



合唱