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転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ

徒然なるままに日々のあれこれやらを綴ります。

ここまで西田哲学に対しての仏教的批判を連ねた以上カントに対しても書くべきだと思うのは至極当然の流れかもしれない。表題のアンチノミーに関しては分かりやすい解説があふれているのでここで詳述する必要も無いだろうが軽くおさらいしておこう。

カントの最も重要な意味?は形而上学を主観から離れて客観から俯瞰しようとした事であると言われる。それがカント自身の言うコペルニクス的転換と言われるものだ。それまでのデカルト的な考察から離れた時アンチノミー、いわゆる二律背反の原理を成した。二律背反事項の最も有名な物は世界の始まりと終わり、あるいは世界の最小単位、自由について、かみについて、である。
カントが二律背反を用いた事によってウィトゲンシュタイン的命題論考も成立したし、カント後の多くの哲学の基礎概念が成立した。複雑で難解と言われるカント哲学だが骨子はこの二律背反であってそれ以外の「悟性」とか「物自体」、「理性」については別段特記すべきのものでもないだろう。

カントを題材にして仏教を論じる学者は後を絶たない。それはカントにおける二律背反の正命題と反命題が仏陀における特記と似た記述式を持つからだ。しかしかかるがゆえに、カントが提示したアンチノミー的事項は東洋思想的に格段珍しい物でも新しいものでもない。むしろ語り尽くされ、論じ尽くされ、未だ結論に至らないものである。カントからウィトゲンシュタインに至って西洋哲学は形而上の語りえない物を語るべきではない、と言う局面で収束し、今も続くのはその上塗り事項的哲学でしかない、と言うと難があるだろうか?
しかし、結論から書いてしまえばカント哲学の論理構造は閉ざされていないので結論は現実的事象に委ねられ数学的記述に置換されるだけでやはり結論には至らないのである。

カントは二律背反事項は正・反が共に命題的に成立する以上、決断する事は出来ないとする。
これは釈尊における無記と似ているが構造上全く異なる。仏陀における無記は判断そのものに対しての判断を拒否する態度だ。それは当然の事であり、判断がある時そこには認知の範囲が及ばなければならないからである。判断の領域を特定する事自体が判断する者とされる物との間の乖離を認める事になる。
これは観測者問題と同列の認知方式であり、観測するものと観測される物とが対立事項である以上、そのもの自体がそのもの自体であると言うそれ自体について「語る」事自体が事象をそのものとして知見する事から乖離する。世界に始まりが無いから語らない、あるけど語らない、と言う事ではなく語る事自体が論理自体の整合性を破綻させる。

カントは二律背反を証明する為に素材的に悟性や理性や物自体を定義したが、その作業をはてしなく継続しても物自体、悟性自体、理性自体までもがアンチノミーに導かれていく(勿論反論は在るだろうw)。ならばカントは他の何物も語る必要、もしくは語るべきではないのだ。
しかし西洋哲学的には語るしか無い。何故なら神の世界であるカントの世界では言葉だけが神と触れ合う点であり続けるからである。神の存在そのものを論理の素材として必須としない仏陀論理、もしくは龍樹論理においては語るべきでない事には一切無記であればそれ自体が本質となるのである。

しかし、この東洋的思想のコペルニクス的www発想は西田幾多郎的には許されない。だから無について詳説するし、それを東洋的仏陀論理では語れない。同じ物を語ろうとしても論理の基礎そのものが異なるのである。この誤謬はどこから生じたのだろうか?それは明治以後の西洋思考式と、鈴木大拙の訳出禅が原因ではなかろうか。

無記は語らない事が問に対する解であり、アンチノミーは解に至らない迷走なのだ。
腹減った…


合唱

と、色々飛ばしているのが気づかれているか否かは別としよう。前章とは趣を変えて仏教的に述してきたい。


あえて触れておきたいが、仏教は世間とは隔絶したものではない。しかし甚深微妙と世尊がしたようにそれは一切と相依しながらその相依はいかにも見えにくい。
この相依性を見性せずに空と有無、有、無、非有非無、を洞察する事は難しい。と言うより言語的束縛に囚われて無と空を混同して禅は無の思想だとする錯誤が生じる。禅は断言するが、現存の如何なる修行においても根幹となる悉有仏性との一体を作すである。

作す、とはなす、と言う事だ。
道元禅師は行仏を場とする。「門を出ればこレ草茫茫、門にいればまた草茫茫」、を仏性と言う。そこに主観の交わる分別は無い。主観無きあるがままの本質を、あるがままに作す時それを行仏と作す。
この時経験を分別する主体が有とする方が破綻している。
その破綻を悟とするから野禅とする。野禅をして例えば経験至上主義の近代禅者の錯誤である、と言う。経験する主体から語られる経験は作仏とならず、主張でしかない。主張は分かり易いがわかりやすさは真実ではない。

では主体無き経験とは無か?
ここでもまた無と経験を結びつける主体が介在する。経験主体なき無は無に非ずと言う時それは空となる。なぜなら我有るに非ず、無に非ず、だからである。経験と主体の分別、あるいは分別無きが故に無であり、それは無で非ずが故に空なのである。
だれが世界の有を否定できよう?しかし依然として世界の空を否定する事も無を肯定する事もまた破綻するのである。
このように世界を観る、あるいは分別せずに世界として在る(有るではない)時、初めて世界は世界として分別することも分節つするのも能わざる事と在る。

このように世界の実相を空、つまり有に非ず、無に非ず、有無に非ず、非有無非無無として作す時、世界は俯瞰される。しかし俯瞰する主体を有無に分別すれば世界はあるがままとして現前する事は無い。
ただ空なる世界である現象として在る者は一切智者としてある。例え、彼が言語や知能によって語りえないとしても、その洞察は世界であり、理解は智慧であり、それをして悉有仏性と作す。
この時戯論としての形而上の論理は成立しうるのか?
もしくは形而上の論理は世界を反映するだろうか?それは自ずから理解されるだろう、例えこの文章によって理解するだけでも。

世界は自覚は無くとも世界である「ココロ」の有り様として真理であり、世界と「ココロ」が分節される事は無い。これをサマタ、止観における皆仏性と言い、それは一木一草もまた仏性の化生だと観ずる事の本質なのだ。

これは超越的、つまりアプリオリな実相ではない。アプリオリな経験ではない。超越的な特権ではない。
それゆえに 道元禅師は悟りに階梯は存せずとするのである。そこで問題であり得るのはここでも場、でしかないのだ。


合唱
西田哲学では無、と言う事が重要なファクトに有る。現代においては佐伯啓思の西田哲学への傾斜や多くの哲学上の体系として引用されもするが、では無の境地とは如何なる哉是?

そもそも、禅においての無、は何もない事ではない。
禅における無とは是に非ず、非ずに非ず、我にあらず、我非ずに非ず。
無無きに非ず、無有るに非ずと言う。
無有るならば常見、無しとするも常見。無の経験は無上であり、無の経験そのものは当然無我であり、経験は非ず、なのである。如何なるや是悉有仏性?と言う時、「如何」、と言う何かは非ず、「是」、と言う時是即色、つまり是はコレに非ず、コレ無きに非ずなのであるから、経験する主体もまた非ずなのだ。では「悉有仏性」における悉有とは何か?それは経験する主体無きが故に仏性は経験主体、つまり個に非ず、また経験主体在らざるが故に悉有仏性なのだ。

上記の論理は四句分別と言う仏道における論理の演算的進行を理解する時明らかになるが、それを経験主体である人が理解の範疇において知見するに非ず。なのである。
つまり、禅に限らず、経験と言う者の主体が存在する時、そこに純粋な有は無い。これは経験そのものにおいて見出される。我、と言う主体の有るがままに純粋な何かを経験する境地を工程する事は出来ない。
しかし一部上記の論を無視する者はこうした我と言う主体が経験する経験を境地と誤認する。そこに自他の有が有る時経験は無い。経験とは我なく生じ、我なく滅する。
しかし我々は経験を得る。
あらゆる経験は純粋か否かに限らず、有るに非ず、無きに非ざる。それ故に経験は記憶される。が、それを純粋とか不順とか分別する時それは言語と言う限定された物の枠に束縛される。故に束縛された経験は純粋な真理を語る事は出来ない。これをして無記、あるいは錯誤と言う。

故に、尚且つ有ろうことか、無を経験する事など不可能である。
では無を見性した禅師はそれを如何に語りうるか?
これに関して道元禅師や近代哲学者である井筒俊彦はかく語る、
「意識ではなくそのものである無との同一化してある事を悟りと言う」(注1と。

(注1 道元禅師・正法眼蔵、井筒俊彦・意識と本質

悟りとは最初に記した如く、在るに非ず、無に非ず、場としての、機としての、活としてある状態であり、そこにおいて見、そこにおいて動き、そこにおいて生じる「性質」であり、それは有で非ず、無に非ずなのである。
それを哲学と言う形而上の論理に書き換える、のは不可能だ。
何故このような錯誤が生じるか?と言えば哲学が主体者の言語において束縛されるからである。経験の否定が成されない経験の肯定は非ずと見性する時経験は生きた主体そのものの状態となる、少なくとも公案としては、なのだ。

では例えば西田幾多郎の哲学は真か偽か?と問うなら、偽とせざるを得ない。偽と言うに憚るなら戯論とする。
西田哲学が西洋哲学と東洋哲学の融和、など可能なはずもない。何故なら西田は西洋哲学的思考における禅に束縛されているからだ。それ故に西田自身、自らの哲学は完成しえざると自戒したのではないだろうか?

つづくw

合唱

最近、正法眼蔵を手元に置いている。
多分、最も日本の宗教者の中で原理主義的仏教者であり、修行者だった私にとっては尊者なのだ。何故か?
我々は道元様を曹洞宗の開祖だと思っている。しかしそれは正しくない。道元様は宗派僧ではな一禅僧で在り続けられた。今の商売曹洞宗は道元様とは無縁だろう。

正法眼蔵の道元様の切り裂くような峻厳さを今の曹洞宗の単なる型だけの修行をどう道元様は見られるだろう。

そしてやはり、一人静かな部屋でただ結跏趺坐する時、禅は禅なのだ。
正当な、命をすら捨てた行なのだ。
あぁ、道元様の時代に生まれ、道元様のそばで教えを請いたかった。勿論、釈尊は言わずもがな、だが。

合唱



にちゃんから引用


1,消費増税5%→8%に値上げ
2,年金支給0.7%減額
3,国民年金料引き上げ
4,高齢者医療費負担増
5,診療報酬引き上げ(医療費値上げ)
6,国民保険料高齢者引き上げ
7,40-64歳介護保険料引き上げ
8,児童扶養手当減額
9,環境税の増税でガソリン代リッター5円UP!
10,電力料金大幅値上げ
11,高速料金大幅値上げ ETC割引縮小
12,公務員給与減額停止
13,軽自動車税は、現在の7200円から1.5倍の10800円に値上げ


事実である。

2、3、7、8、は仕方ないと思う。

年金受給者の資産、預貯金額は現役労働者を大幅に上回る。しかし、むしろ引き下げより生前贈与の相続減税などの方が通貨の流通にとって好ましいのではないか?

高齢者の医療費負担増は高齢者が皆金持ちだと言う前提なのだろうか?

5、の実質的受療者の負担増?消費税は何の為に本当は使われるのだろうか?


児童扶養手当の減額は如何様にも取れるのであえて不問にし、ても良いのか分からない。

「減額対象者
下記に該当する人
①母が児童扶養手当受給資格者である
②児童扶養手当の支給開始月の初日から5年または、手当の支給要件に該当した月の初日から7年を経過した人
※児童が3歳未満であるときから児童扶養手当を受給している場合は、児童の3歳の誕生日の翌月初日から5年経過した人

減額後の支給月額
支給額(手当)の2分の1」

この文言を見ると、低所得者と定義される年収200万円以下の世帯でその状態が5年以上恵果した家庭は減額対象となるようだ。しかし20年の停滞で3人以上の世帯で何らかの理由や、中小小売零細企業の事業主の何割かも対象になるだろう。従業員に給料を払いながら自分は薄給で耐えている事業者は実際は多い。


増税は既に多くの便乗値上げを発生させている。

それは仕方ないのだ。これまででも耐えて耐えて値上げを我慢してきた零細事業者や中小企業は多い。たかが3%、は実際はたかがではない。商品の仕入れには消費税が付加されている。それを飲み込んで3%から5%へと耐えて来た事業主は流石に転嫁せずにはいられないだろう。結果は消費の冷え込み、あるいは大きな包含力を持つ企業への利益の集中を生むだろう。これが、経団連の目論見だったとしか思えない。


8、9、10は合理的な理由として幾分かは納得も出来る。しかし、流通の分野は以外にも中小が多い。ロジスティックの多くの事業者はコスト高騰に曝されるだろう。現代の運搬業はロジスティック、つまり効率的流通の名の元に道路を倉庫にせざるを得ない時代である。中小運搬業者は大手の下請け孫請けとして稼働する事業者が多い。つまり高速道路の使用割合は確実に減り、ドライバーの労働的負担は増え、しかし賃金は上がらないだろう。何故なら価格転嫁は如何に取り締まろうと生じるからだ。


こうしてみると有能な自民党の政策実行は国民の幸福に寄与しない面ばかりが見える。

自民党ばかりの責任取は言わない。平成26年度予算の概要は既に民主党時代に策定されていたからだ。しかし自民はそれを改善、する事をしなかった。つまりこれは政党に関わらず政治全ての責任だと言えるだろう。保守もクソも無い。全ての議会政党に平等に課される責任だ。

日本の議会制民主主義は官僚の怠惰に押し潰され、その負担は国民に押し付けられ、その内でも最も弱い弱者に課される。


では弱者中の弱者である生活保護者はどうであろうか?

生活保護などなくせと言う人の主張は実際は自分より弱い者へのイジメかもしれない、と言う想像力は見えない。勿論日本人ならざる者に支給する必要は皆無だ。この制度は日本人の為の制度である。しかしそれは無視して日本人も日本人ならざる者も同列の論じる。


日本人の倫理は確実に崩壊していく。

日本人の倫理が崩壊しつつあるから政治家はその程度なのだ。国民の民度は政治家に現れる。さてしかしその民度を一般の日本人の民度である、とは言わない。この民度の尺度はつまるところジャーナリズムの民度に他ならない。勿論、それすらも多分一般人は知らない。


もう既に日本人は帰還不能点を超えたのかもしれない。ポイント オブ ノーリターンである。

今から目覚めている日本人が作すべきは、なすべきは、真実の保守主義を構築する事である。それを私は元型保守主義と呼ぶ。日本人の意識の奥底に存在する日本人の幸福への感性を取り戻す事の出来る保守主義である。残念ながら既存の政治家にはほとんどそうした感性を持つ者は居ない。ほとんどの政治家は西洋民主主義に感染した、精神的ミームの保持者であるとしか言えない。ミームとは精神に感染するウイルスなのだ。どれだけ己を保守であると自称していても彼等は日本的保守主義者ではない。


TPPに向けた準備が進んでいく。消費税10%を画策する財務省は怠惰な合理主義者でしかない。構造改革は構造破壊を進めていく。ここで言う構造破壊の対象は当然、日本人の元型なのだ。日本人である事を破壊する民主主義など糞食らえではないか?

詭弁はもう捨てたい。

私は公然と既存政治家を批判する。

既存政党を批判する。

是々非々でもない。完全否定する。アナーキズムではない。再構築すべきだと思うからだ。


私は元型保守主義者である。



合唱


早朝目を覚ましコーヒーを淹れる。

飲みながらPCBで台湾の立法院を見、その日のニュースをチラよみし、そのまま屋内墓場に行き座る。昼前、空腹を覚えたので座るのをやめて母と自分の昼食を用意する内にヘルパーが来て掃除をしてくださる。

自分は一人でモゴモゴと食事をする。母はヘルパーさんとの世間話が優先のようだ。


外に出てしばし陽光を浴びてから再び座り3時過ぎに少し横になる。

5時に買い物に出かけ食事の大まかな用意だけして二階に上がりPCで台湾映像を観ている。

妻さんと息子くんは花見に出かけた。

8時半にご飯が炊きあがり母と二人で夕食。勿論、炊きたてのご飯と惣菜を仏前に布施?した物のお下がりを自分は食す。少し長めに勤行をしたのは日頃の慌ただしい勤行の貯蓄分である(ナイナイ)。妻子の食事は用意してある。


食後青汁をw飲んでまた台湾映像を何も考えずに見ていた。

妻子さんたちが帰宅して食事をしていた。


食後はつい先程まで座っていた。

別に瞑想とか座禅をしているわけではない。

ただ姿勢を正して座るだけだ。

入浴中はあやうく瞑想に入りそうになったが無事髭を剃る事が出来た万歳。


合唱


今回の学生占拠のリーダーである林飛帆君の経歴を失礼ながら調べてみた。
筋金入りのハト派学生運動家であり、海外への留学経験も無く、同様にもう一人の主導者である陣君も実に白い。
こういう所で海外留学経験などが出てくると途端に胡散臭さが倍増するのだが、林君の主催する運動のリーダーは林君自身であり、政治結社などが彼に接触した、等というものも見いだせなかった。
中台首脳会談時に台湾が国旗掲揚をしなかった事に対する遺憾の意から林君は学生運動を初め、今回の運動の組織もそもそも彼自身が組織したものである。

勿論、彼に従うようにして何らかの意図を持った人間が介入している可能性は存在するものの、今回の事件に対する李登輝元総統の配慮や野党、与党共に林君に対して影響を与えられていない現状を観るにこれは自然蜂起だったと観るのが素直な見方だろう。これからは別として、だ。

問題はこれから、であろう。
林君は尖閣問題においても独自の考えを持っているようだ。尖閣上陸運動家の支援者として有名な旺旺グループのメディア独占に抗議して大手ケーブル会社の買収を阻止した実績や、大手新聞社買収を阻止した実績を持っている。冗談話ではあるが、中共にしてみれば彼が日本の工作員だと言っても冗談とは取れないだろう。
実際そうだったらどうするww?

運動の支援についても調べたが、本当に善意の支援に支えられて入る事に驚く。
中小企業経営者や学校、教師、弁護士、民族団体、近所の焦点などが彼らの生活を支えているのだ。そして勿論、与党国民党、野党民主進歩党の支援もある。この運動の特殊性はそこにある。
ハト派の林君は強引な自主独立を主張しているわけではない。タカ派の学生運動家の多くは完全独立を目指している。しかし両者は日本のかつての学生運動と異なり、互いの主張についての批判をすることが無い。
しかし今回の運動は香港に飛び火しつつあり、この波はどうやら独立派の台頭に繋がるだろう。

この問題の主題がウォール・ストリートと同義のものである、とニコ生で日本語訳をしている女性が解説をしていた。台湾メディアによれば、学生を支持する国民は50%に及んだと言う。台湾でもメディアはグローバル推進派が多い状況であり、日本のマスコミ同様偏向報道が多いと言う話からして、実際の学生支持はもっと大きな物だろう。
これらの分析が導き出すのはむしろ、民主主義国が学生を無視する図式ではないか?

実際日本だけでなく海外の多くのメディアも今回の事件の実相についての報道は少ない。ウォール・ストリートの時と同様に、である。
つまり、何たることか民主化してまだ日も浅い台湾で生じた事件の顛末は金融資本主義対国家資本主義の構図を持ち始めるのだ。

ますます台湾から目が離せなくなると同時に色々な背景をしらべなければならないと言うおもいが強くなるのであったりする。

台湾学生加油!


台湾立法院の占拠はすでに2週間近くに及んでいる。
学生たちの情熱は過酷な立て篭もり抗議活動に耐えている事に賛辞を送りたいが、同時に台湾で起きている事が実際は何かは中々分かり難い。サービス貿易協定に対する反対だろう、と言うのは当たり前の事だが、そういう学生たち自身も国民党自体を拒否しているかと問えば、多分そうではない、と言うだろう。

国民党の馬総統が元凶なのだから国民党を攻撃しているのだ、と言うのは一面的な見方でしか無い。日本人が考える以上に国民党は台湾国民にとって重要な政党であり、歴史的に台湾そのものなのだ。李登輝総統も当然国民党の代表であった。孫文、蒋介石を経て今に至る国民党は台湾のみならず支那にとってすら大きな存在でもある。
今回の学生の抗議に対しても、国民党内部は統一的ではない。
先日も李登輝総統の学生への支援、ともとれる発言が報じられた。

台湾の独立を望む国民党と、支那大陸の正当な継承者であるべきだとする国民党と言う複雑な構造を国民党は抱える。馬英九はそもそも大陸の香港出身者であった。台湾は英国領であった香港人が容易に移住出来る土地でもあったのだ。香港が変換された時、多くの香港人が共産主義体制への嫌悪から台湾に移り住んだ事は知られている。同時に、大陸の貧困層もまた台湾への移住を促進した。彼等に共通するのは台湾は避難場所であり、本来は大陸こそが故郷であると言う意識でもある。

それはそれとして、今回も、違和感を払拭しえない疑問ははじめから存在した。
立法院の占拠をゆるしている議会議長も国民党議員なのだ。
民主進歩党が与党の政治に反対し、学生を支持するのは当たり前だが、国民党内部にも学生を支持し、あまつさえ立法院占拠を許し続けている現状は異常だと言わざるをえない。
これから学生たちの行動が台湾に何をもたらすのかは予想しがたいが、学生たちの行動もまた彼等自身が意図せざる政治的駆け引きに利用されるであろう事は予想に難くない。

実際報道される事は無いが何らかの政治的交渉の材料として今回の大規模抗議活動は利用されるだろう。それは何なのだろうか?
サービス貿易協定を仮に馬英九が破棄するような事態に到るような事になったとしてもそれで台湾の問題が終わるわけではないのだ。
当然、学生たちに動きのきっかけを与えた存在の事もかんがえなければならないだろう。もしそれが例えば民主進歩党ではなく、国民党の内部勢力であったとしても不思議ではない。これは馬英九の失脚を望む誰かが仕掛けた存在に原因があるとしてもおかしくはない。

常識的に考えて、その存在が政党的存在のいかんにかかわらず、反大陸回帰派であるとしてもおかしくはない。冷徹に言えば、学生たちの純粋な行動もその純粋さだけで継続していると考える事は不可能なのだ。
肝心な台湾政局の報道が中々見えない現状はこうした疑念を拡大させる。民衆主導の反政府活動が活動家たちの純粋性だけで成り立った、などと言う例は世界史には存在しないのだ。ここでも、やはり台湾を混乱させる事で利益を得る存在を仮定しなければおかしい。
CIAが自国の軍事力を行使せず、なおかつ台湾をコントロールを維持する為に裏で動いていたとしても不思議ではないし、他の利益追求者がいたとしても不思議ではない。

しかしいずれにしろ、学生たちの抗議は正当なものである。
それは日本にとっても他人事ではない。他人事ではないからこそ、事の推移については注意を払わなければならないのだ。


合唱


先日、古い安倍総理の発言を読んでいて驚いた事があった。と言うか驚くと言う表現は正しくないだろう、改めてガッカリした、と言うべきだ。
それはどこかの公演での発言で、首相はゴールドマンサックスなどの提言を取り入れた政策を実行すると言う趣旨のものだった。
言うまでもなくゴールドマンサックスは金融コングロマリットである。しかしだからと言って失望したというのではない。ゴールドマンサックスが倫理無き金融コングロマリットであると言う認識と結果を観ているからである。

しかしそもそも金融コングロマリットに倫理など存在するのか?と言う自問にもその失望は繋がる。
同時に現在、現代の資本主義の多くの部分はGSに代表される金融によって支配されつつあると言う現実にも認知は触れる。
このブログではいつも金融コングロマリット批判を繰り返してきたから、読者は耳タコ状態かもしれないが、何度でも書かなければならない。金融資本主義と言う単語には実体は無い。もしくは、金融資本主義は資本主義ではない。金融資本主義等という資本主義が存在してはならないのだ。ちなみに私はサヨクのつもりは全くない。

何故金融資本主義は資本主義ではないか、と問う人はいるだろうか?
それは間違いなく金融の主人公が人間ではないからである。人間の存在を道具としてしか見做さない富の集中は生の否定だ。そこではネット上の額面の移動だけ、資源の略奪だけが存在し、その富が人の幸福に寄与する事は無い。人から人へ流通して初めて経済は成立するはずの基本単位(通貨)が成立しない構造が金融資本主義の正体なのである。
その代表的な存在がGSやかつてのリーマンではないか。GSやは人には寄与しない。GSが相手にするのは企業であり、コングロマリットであり、同じように金融に依存(その移動で富を収奪する)している数字の奴隷なのだ。

そのようなシステムを社会に欲する、と言う事は社会の倫理を破壊したいと言う事に他ならない。
一国の首相がそうしたシステムへの助力を要請する、と言う事の意味するところは国家が社会の構成単位を人ではなく金融に譲り渡す事ではないか?
資本主義の定義とは色々あろう。しかし私はここでは小室直樹の論を採用したい。資本主義に必須なのは高度な労働への道徳的美徳であり、資本に対する倫理である、と。
これらの倫理が社会で最適な状態を保ち、人々がそれを認知するなら、ある程度の社会的安定性は確保されるのだと。しかし金融市場主義には倫理は採用されない。富は必然的に集中を促進し、社会的流通は阻害される。それは社会にとって破壊的な混沌の原因になる。その典型的な例がEUの失敗であり、アイスランドの失敗であり、韓国の失敗であり、支那の失敗であり、共産主義の失敗ではないか?

社会の基本的単位が人である事を忘却した社会は必然的に崩壊する。それは歴史的に、通貨を軍事に置き換えても覇権に置き換えても理解出来る事だ。いずれの場合も人ならざる物が社会を支配的な存在になった場合に生じる必然なのだ。その反省から生まれたはずの資本主義が現代では存在を失いつつある。日本の資本家、と称する獣の正体は人ではなく独占主義者であり、通貨の奴隷であり、多様性の否定論者ではないか?

つまり、現代社会に(世界のほとんどで)資本主義は存在しない。しかし、そもそも資本主義自体がそのような怪物を生み出す可能性を常に秘めたシステムである以上、資本主義そのものの終焉も近いと言うことなのかもしれない、と日本国総理大臣の発言を読んで感じたのである。



合唱

どれだけ君が優れていても、あるいは秀でていても、同じレベルの中では平凡だろう。そして世界と言うものはえてしてそうしたグループによって分けられている。
会社でも学校でも、友達ですら、知らない間に君は君自身のレベルに合わせた交際の中にある。それは実際は不善な事であり、不調和な事であり、そうした無意識的ヒエラルキーへの同調こそが人生の芳醇さ、達成、あるいは真の友情などを阻害し、もしかしたら人生そのものを台無しにするものですらある。

だからもし本当の世界、社会、人を理解したいなら君は自分の属する世界から一歩踏み出さなければならない。しかしそれはたやすい事ではないだろう。
上がる事も、下がる事も、人間にとって容易なことではない。
君はどのポジションにいるのであれ、人生に退屈するかもしれない。
あるいは苦しむかもしれない。
あるいは怒りを覚えるかもしれない。
慣れて、凡庸になじんでしまうかもしれない。

それはとても一つの生にとって不公平で大きな損失であると同時に、実は君を包含する世界にとっても大きな損失なのだ。
小さな自分を蔑むのはたやすい。大きすぎる自分と他を比較して憐れむのは快楽かもしれない。
しかしどのような場合であれ、それは一つの生を矮小化する事だ。
そうした矮小化がどのような階層に属する人間であれ、閉ざされた自我を形成していく。共感は奪われ、ひとつの生のネットワークは狭小なゴミに化する。

君は喜べないだろう。
そして今多くの君は喜びを見出す事なく、世界を批判し、社会を批判する。批判に値する社会であり、批判すべき世界だからそれは正しいのだ。しかしそれだけでは君の閉塞感は解消されない。何故なら君と言う一つの生は閉ざされ、閉じ込められているからだ。
そのような哀れな生が現代には溢れかえっている。年収に関係なく、能力に関係なく、地位に関係なく、君の生は矮小であり、閉塞し、そこには傲慢さや卑屈さがあり、幸福は見出されない。

ではどうすれば良いのか?
勿論、先に書いたように、その世界から外に出れば良い。
しかし同時にそれは容易ではない、とも書いた。

自らに光をあてる事。それが第一歩だ。
君は疲弊しきって一日を終える。その最後に、1分で良い、5分であればもっと良い。一日に感じた喜びやそれを与えた何かに対する感謝をつぶやくのだ。あるいはノートに書いても良いだろう。感謝の日記をかければもっと良い。
疲弊しきって沼にはまるように終わる日々の最後が、いつの間にか喜びの時間に変わるだろう。その喜びは閉ざされた生の扉を開く鍵になっていく。



合唱