カントの最も重要な意味?は形而上学を主観から離れて客観から俯瞰しようとした事であると言われる。それがカント自身の言うコペルニクス的転換と言われるものだ。それまでのデカルト的な考察から離れた時アンチノミー、いわゆる二律背反の原理を成した。二律背反事項の最も有名な物は世界の始まりと終わり、あるいは世界の最小単位、自由について、かみについて、である。
カントが二律背反を用いた事によってウィトゲンシュタイン的命題論考も成立したし、カント後の多くの哲学の基礎概念が成立した。複雑で難解と言われるカント哲学だが骨子はこの二律背反であってそれ以外の「悟性」とか「物自体」、「理性」については別段特記すべきのものでもないだろう。
カントを題材にして仏教を論じる学者は後を絶たない。それはカントにおける二律背反の正命題と反命題が仏陀における特記と似た記述式を持つからだ。しかしかかるがゆえに、カントが提示したアンチノミー的事項は東洋思想的に格段珍しい物でも新しいものでもない。むしろ語り尽くされ、論じ尽くされ、未だ結論に至らないものである。カントからウィトゲンシュタインに至って西洋哲学は形而上の語りえない物を語るべきではない、と言う局面で収束し、今も続くのはその上塗り事項的哲学でしかない、と言うと難があるだろうか?
しかし、結論から書いてしまえばカント哲学の論理構造は閉ざされていないので結論は現実的事象に委ねられ数学的記述に置換されるだけでやはり結論には至らないのである。
カントは二律背反事項は正・反が共に命題的に成立する以上、決断する事は出来ないとする。
これは釈尊における無記と似ているが構造上全く異なる。仏陀における無記は判断そのものに対しての判断を拒否する態度だ。それは当然の事であり、判断がある時そこには認知の範囲が及ばなければならないからである。判断の領域を特定する事自体が判断する者とされる物との間の乖離を認める事になる。
これは観測者問題と同列の認知方式であり、観測するものと観測される物とが対立事項である以上、そのもの自体がそのもの自体であると言うそれ自体について「語る」事自体が事象をそのものとして知見する事から乖離する。世界に始まりが無いから語らない、あるけど語らない、と言う事ではなく語る事自体が論理自体の整合性を破綻させる。
カントは二律背反を証明する為に素材的に悟性や理性や物自体を定義したが、その作業をはてしなく継続しても物自体、悟性自体、理性自体までもがアンチノミーに導かれていく(勿論反論は在るだろうw)。ならばカントは他の何物も語る必要、もしくは語るべきではないのだ。
しかし西洋哲学的には語るしか無い。何故なら神の世界であるカントの世界では言葉だけが神と触れ合う点であり続けるからである。神の存在そのものを論理の素材として必須としない仏陀論理、もしくは龍樹論理においては語るべきでない事には一切無記であればそれ自体が本質となるのである。
しかし、この東洋的思想のコペルニクス的www発想は西田幾多郎的には許されない。だから無について詳説するし、それを東洋的仏陀論理では語れない。同じ物を語ろうとしても論理の基礎そのものが異なるのである。この誤謬はどこから生じたのだろうか?それは明治以後の西洋思考式と、鈴木大拙の訳出禅が原因ではなかろうか。
無記は語らない事が問に対する解であり、アンチノミーは解に至らない迷走なのだ。
腹減った…
合唱
