転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ -4ページ目

転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ

徒然なるままに日々のあれこれやらを綴ります。



観と共に…
瞋恚が滅っする。

あっさりと、至極あっさりと。
川が流木を流すように、あるいは風が木の葉を何処かへ運び去るように、それは消える。

ブルドーザーが凸凹の地を均すように。
心に刺さる矢を抜くように。
重い荷物を運び終えるように。
否定を拭い去るように。

自己と他を分別する垣根が壊れたように。
自己と自己ならざる、と言う思いの迷いからすり抜けるように。
有る、在ると言う壁を突き抜けるように。
過去・現在・未来、と言う幻が瞬時に消えるように。

暗闇を光が消すように。
炎が燃やし尽くしたものに戻らないように。
雨が地を潤すように。
彼岸と此岸を共に捨て去るように。


合掌



唯作心とかどうでも良いの。

とても暖かい日だった。Tシャツでもおかしくない。
残念な事に、脂肪が少ないので微妙な温度変化について行けない。だから長袖Tシャツを着て外出した。世は事もなしに決っている。決っている所が怖い。
人々は機械だ。
生きる事はとても無機質だ。

買い物の精算に並ぶ人は話はしていても会話にはならない。
その言葉は単に音だ。
ただ、何となく生きていて、何となく死んでいく。
悪い事でも良い事でもない。そうあるだけだ。思想など不要だ。ただ生きている、だけだ。ただ生きているだけの存在がただ生きているのである。それでこの国はこれまで来たが、これからも行くか行かないのかは知らないし、異を唱える事も無い。

夜、いつも見る討論番組を見ていて時が過ぎていった。
意気込んで話をしているが、その実自分の言葉に酩酊しているだけで、中身など無かった。それは主義主張や、思想や、愛国や、何やかやを主張するだけで、彼等は実際誰の話も聞いていない。所詮、政治とか宗教に関わると言う事は独善を誤魔化す作業でしかない。
民主主義?
愛国?
独立?

彼等はその恩恵によくしていながら、それを捨てる精進も活力も無い自分から逃避しているだけかも知れない。国を憂う自分に酔って、依って生きているその他大勢を見下すだけの人々、と言うとこれまた独善である。
失う事を忌避し、現状を非難し、しかし現状を擁護し、そうして論理的に破綻しながらその実何の自覚も無い。とても滑稽だ。
滅び行く者だ。

善悪など無い。
ニヒリズムと呼んでいただいて結構。民主主義は不完全だからいつか滅ぶ。それに変わってまた何か滑稽な思想を創造して、そうして繰り返すだけだ。
それが輪廻だ。
善悪などない。それを観するだけだ。
それに染まらず、それに取着せず、ただ一人歩め。

すべては泡沫である。
うたかたである。
真実はそこには無い。
法も無い。
人の世界があるだけだ。


合掌


Namo tassa bhagavato arahato samma sambuddhassa



夜、行者さんとお話をしていた。

私は禅宗の門徒?だが禅宗の悟りは否定している。

「頓悟などない。ある日突然降って湧いてくる覚りなど無い。ただ座って、無思量を思量しても悟る事など無い。禅師が大悟と呼ぶものの正体は単なる精神変容であり、滅却される何かなどない。」と私は断言した。


では自分はどうなのだ?と問われれば、精神変容はひと時の脳内で起きるハプニングであり、それを利用する事はできるがそれを覚りだと言う事は許さない、とまさに法灯明が否定するのだ、と私は答えた。

では漸悟はどうなのか?

それもまた虚偽であると私は思う。はじまった流れを漸進的に覚りを積み重ねる事を漸悟なのだと言われれば成る程、とは思うし、多分上座部における覚りへの階梯はそれを求めるのだろう。しかしそれもまた真ではないと断じる。


ある、仏教を探求するブログを読む。いつも感じる事は(そのブログの著者?は年上の方なのだが)歪んでいるな、と言う事だ。彼はまず自分に仏教は必要か?と問う。そんな事は貴方の勝手でしょ?貴方が判断する事であり、その貴方の判断すら貴方の物か、つまり貴方は仏教を前にする機縁を持ちながら自分と言う判断であーでもない、こーでもない、釈尊はこうした、あーした、あー言った、こー言った、あるいは上座部の修行者は云々かんぬんと中に入りもしないで外周をグルグル彷徨っているだけなのだ。中に入らなければ何一つ得るものは無い。


しかし多くの仏教徒は彼同様に中に入らないのだ。

中に入らず、南無阿弥陀仏と唱えて納得したり、苦行したり、あるいはアビダンマに熱狂したり、タイやミャンマーに出かけて行って印だけつけてもらうのだ。

しかし中に入れば、全く話は異なるのだ、と私は知っている。

行者さんに転寝さんの覚りは何ですか?と問われた時、私は思考を介する事無くそれは

「そこにある流れに身を任す事です」と答えた。

勿論、もっと言葉は使用したが、趣旨としてはそれに尽きる。


「そこ」とは何処か?それはあるべきようにあるがままの面前に対峙する事だ。

釈尊は心を制御せよ、法を灯明とせよ、と説いた。自らを灯明とするのはそこに自らを、つまり言葉になり得ない自覚に生きる事である。それが「入る」事だ。

入れば、それは自ずから、みずから、働く。戯論は尽きる。輪廻が在るとか無いとか、魂が在るとかないとか、実在は有る、とか無い、はそこにおいて戯論だと断じた世尊の言葉の意味そのものが生きる。


転寝さんは悟っていますか?

私は悟っていません、しかし入ってはいます、と答えた。疑はそこにないから、応は思考を要さないのです、と。しかしこれは覚りではないし、そもそも覚りを求める事も無いのだ。

入ったから日々、私を構成した諸々の夾雑物は観と共に滅していくだけなのだ。

その果てに、世間で生きていけなくなる予感にまだ片足が世間にある私は困惑しているのです、と行者さんに笑いながら答えていた。

それは途絶しない。何故なら、それが本来、阿留辺畿求道?なのだから。


合掌


夜妻さんの風呂介護をする。

当然その前には食事を用意し、トイレ介護をし、仕事をし、母の介護をし、母のトイレ介護をし、母の食事介護をし、当然仕事をしつつ…


全然大変ではない。

朝起きてから夜寝るまで充実している。

その隙間には読書もするし、生放送もするし、ネットも漁るし、写経もするし、24時間では足りない。勿論、合間を縫って座る。

母の通院。

病院でも待つ時間には座禅をしている。


雑踏は消えていく。

雑音もそこにはない。だから病院の待ち時間も然程の苦ではない。

買い物にも行く。

妻さんと連れ立ってショッピングモールに行き、コーヒータイムし、そこでしか変えない食材を買い、本を買う。ちっとも苦ではない。


何も苦ではないのになぜだか夜、疲弊している肉体があるw


笑い事だ。苦痛など感じないのに疲弊は感じる。

精神は疲弊していないのに、肉体は着実に衰えていく。

精神はますます静寂に至り、求めるところは少なく、所有への執着も消え、感情の凹凸も均され、世界は輝いていくのに、肉体は疲弊していくw


これが年齢なのだろうか?あるいは病気でも発病しているのだろうか?

この精神?この静寂と充実と、求めるところではないけど智慧の中で終わるのであれば何の恐怖も存在しない。最早、死は私にとって友人であり、それも生と共に善き友である。

年齢が私と言う現実における存在をいつか空に帰す事に恐れはない。ただ、あるがままの私は疲弊しているようだwww


ある日を境にいつまでもブログが書かれなくなったら、生放送がされなくなったら、私は多分みなさんの目を汚す事は二度と無いところに去ったと思われたい。

と、昨日、今、明日、などと言う物を持たない私は書いてみる。


合掌

あらゆる意味において世界は多様であるべきではないか?
多様性。それは、それぞれの民族、国境、風土が人々にもたらした元型である。グローバリゼーションにおける趣向や嗜好の変化まで否定はすまい。
しかし世界を何らかの秩序で画一化する時、我々は自らの価値観さえ書き換えられる事を覚悟しなければならない。
認知しうる全てにおいて、我々が悪しき画一化を監視し、拒否し、独立しなければならない。
それが「一身独立して一国独立」なのである



合掌

先週くらいから非常に体調が悪い。


1,ただ単に体調が悪い

2,病気

3,読書のし過ぎ

4,歳


どれだろう?


近日コミュニティーで小室直樹先生の朗読をしたいと言うのでご自身の言葉を貼ってみた。

かつて日本は社会主義国だった。
No、それは間違っている。では資本主義国だった?
No、それも間違っている。

では高度成長期の、戦後の日本は如何なる国家だったのか?
それを上の動画の前半で語っておられる。
日本は社会主義において滅び、資本主義に特化して今日の経済停滞をもたらしたのだ。これは単純明快な全てだと思う。

如何に優れた思想、理論であろうと社会の全域を一つの理論思想で流動させる事は出来ない。失われた20年の最大の本質的元凶は資本主義に特化した日本コングロマリットが利益を国内で循環させなかったからだ、と言うのはほとんど誤りの無い事実だ。
それは企業が、国内景気を回復させよう、国内で利益を循環させようと言う「無駄」を回避したからであり、そのような姿勢を政治が許したからでもある。

国内で企業の利益を循環させうる「強制力」を持っていたのは政治だったが政治は機能しなかった。その原因は遺憾ながら官僚の既得権益なのである。
一言断っておくが、これは普遍的な官僚批判ではない。ある階層に到達した官僚、かつてのソ連におけるノーメンクラートや、現在の支那における共産党幹部階級クラスの官僚の腐敗なのである。

先に書いたが日本クラスの人口と供給能力と文明を持つ国家を一つの方法で運営する事は不可能なのである。事実、年々欧米は国内においては社会主義的な国家運営を強化しつつあるそのような方向転換を計ったのは昭和の日本の社会運営システムを取り入れたからだ。
しかし肝心の日本は方向に迷った。
社会主義的に強制すべき部分においての政治が働かなかったのだ。

官僚と書いた。
しかしこの官僚、には大きく包含する官僚出身政治家の存在がある。
資本主義に経済を投げっぱなしにしたのは実際は企業の要望なのだ。ここで日本は「資本主義」ではなく、新自由主義に移行していた事に気付いている日本人はどれほどいるのだろうか?グローバリズムを批判するのは容易いが、とうの昔に資本の流動性において日本はグローバリズム経済であり、主義としては新自由主義的な国家なのだ。資本の利益は国内で流動せず、それが国民の成長への願望を拒否し、国民の資産は流動しない。

ここで完全に日本は矛盾を抱えてしまう。
世界の純債権の大きな部分、例えば純資産としての米国国債の所有の7割(支那の米国債保有は短気国債である)を占め、世界の運用可能純資産の半分近くを持ちながらその資本が債権者である日本国民の為に流動する事が無かったのが、失われた20年の真実なのである。

ここで明白になる事は、日本の経済システムが問題なのではなく社会システムが異常なのだと言う事実ではないか?
経済システムの根幹は資本であり、それ自体に社会主義的強制を与えるのは無理である。重要なのは社会システムの運用主としての政治の強制力なのだ。政治は社会システムにおいて資本に倫理と道徳を強制すべきなのである。しかし、日本の経済は資本主義とはならず新自由主義と化してしまった。この事を政治家も国民も理解すべきである。

政治とは常にプラグマティズムにおいてなされなければならない。しかしプラグマティックに運用されるには政治自身に倫理と規範と道徳がなければ手段と目的が明確化されない。
この非常にデフォルメした2つのアイテムを欠いたのがバブル時代から失われた20年が過ぎた大きな理由なのである。


つづく…かな合掌

現実とは何か?
こういう書き出しをするから読者が増えないのだろうかwだがこういう書き出しをせざるを得ない「現実」が最近政治オタクに見られるのだ。
君たちは政治を語る前に現実を見なさい、と目の前にいたら私は言うだろう。現実とは字義通りに解すれば「現わに実体化する事」なのである。それは願望でも希望でも思想でもない。それはあるがままに今在る事なのだ。それが見えていない時人はある種の狂いにはまる。

しかしオジサンは優しいので諸君の落ちる穴すら経験してきた。
まだ自分と言う何かについて妄想を抱いたり、希望や願望や失望のさなかでモミクチャな存在である自分に気づくのは成る程シンドイ事でもある。現実の自分の惨めさ(それはオジサンも同じなのだが)を直視する事は困難に決っているのだ。
それほど、現実は自分とは乖離している事自体を理解し、顕に見なければならない。

そのままの現実を直視するのだ。
如何にそれが自分の願望から程遠いものであっても、目を逸らしてはならない。直視したそのもの自体に対処する事を今を生きると言うのだ。その答えが如何に気に入らない事であっても、それを直視し、それが「認めがたい現実」であるならそれを徹底的に分析し、分解し、材料を揃え、作すべきを成さなければならない。それが例え願望や希望を否定する事であるとしても、あるいは安心出来る幻想であっても。

そのように出来ないなら口を閉ざすだけである。
何も成さず、奴隷であればよろしい。この場合の奴隷とは精神の奴隷であり、そのような者は自らが奴隷であることを自覚せず、自らを縛る鎖を誇るだけである。願望に、希望に、信念ですら束縛であると自覚して鎖の呪縛から自らを開放する者を現実を見、成すべきを成す者と言う。


合掌
<批判精神について>

先般安部総理の政策を批判する事は左翼的だと言う主張が自称保守の間で浸透しているようだ。安倍氏は決してグローバリストではない、あれはグローバリズムからの圧力をかわそうという戦略なのだ、等という主張すらある(某保守番組
批判≠否定の意味も分からないのだろうか?批判精神の無い知性など存在して良いのか?とむしろ聞きたい。
あらゆる事柄について思惟し、分別し、材料を揃え、洞察し、客観し、論理を見出してこそ批判と言う物は成り立つ。つまり知性の全般的活動があってこそ批判が批判足りうるのである。これはどのような分野でも同じで、仏教ではそれを法戦と言う。
直感や希望や主観に基づいた願望に傾倒する事は知性の放棄であり、それは最も忌むべき妥協なのである。

さてコミュにおいて我々は批判を展開する。我々とは放送権限をもつメンバーである。
私は言葉が拙くても迷走しても自ら思考し、分別しようとする知性には放送権限を与えて悔いない。どこかで拾ってきた主張や論理だけの主張は要らない。自ら調べ、知的にアクティブな事が放送権限を持っていただく唯一の基準だ。
そう言う人は結果的に批判精神を持つ人に多い。世論や風潮や流れに乗る人にはご遠慮いただいている。
世論には3つある。
大きな世論。
主義主張を同じくする者の世論。
否定的な世論。
である。例えば私は保守だと自称するネトウヨだが、主義主張が似ていても迎合は拒否する。あくまでも私の保守は上記のち的活動に基づいた民族自決の保守であり、それに反する現象には例え同士が反論しようと同士を批判する。

その結果私は現総理の政策に批判を述べるのである。


<材料・人間の本質、優劣による階級固定>

ある国際的金融資本のコンサルタントである学者が言った。
「グローバル企業の世界統治こそが世界に将来的平和をもたらすのだ」と。これは嘘でもなんでもない。クリントン元大統領の指導教員であり、ハーバード大学、プリンストン大学、ジョージタウン大学の外交政学科歴史学者であるキャロル・キグリー教授の実際の言葉だ。彼はいわゆる米国エスタブリッシュメントである。
エスタブリッシュメント、の意味は支配階級だと言う事はなんとなくご存知の方も多いだろう。
私は米国民そのものを批判したいのではない。しかし米国には支配者の倫理などない。彼等には如何に人々をコントロールするかの哲学だけがあるのだ。そうした教育を有名な教育機関の著名な学者が著名な選ばれた?学生に対して行っている。

哲学者のラッセルは優生保護主義者であった。
劣悪な遺伝子は淘汰されるべきらしい。それは同じ白人にも適用される。世界中でナチスは今も否定され、悪の権化だと言われる。同じ思想のラッセルやチャーチルは何故許されるのだろう?
一見何の関連もグローバリズムとは無縁に思われるかもしれない。しかし実は深い部分でキグリー教授やバートランド・ラッセルやウィンストン・チャーチル、そして現代で言えばレーガン、クリントン、ブッシュはグローバリズムの根幹に関わっていると、結論付けざるをえない。
資源は優れた者の専有すべきものであり、劣悪な人種、遺伝子、凡庸な庶民はそれらを活用するための生きた道具でしかない、と言う思考だ。ラッsルはとんでもないクソ哲学者と言う他無いがそれを置いておこう。

日本人のエスタブリッシュメントとて例外ではない。
私は左翼的に人間が平等であるべきだ、等というつもりはない。むしろ人間は不平等である事を認めている。自分の中にも知性無き人間を侮蔑する増上慢が存在する。自分自身も劣悪な人間だという自覚が共存する。しかし同様に知性すら環境がもたらすのだ、と言う最近の脳の研究も認めている。知能を向上させる多くのファクトは環境であり、遺伝ではないと言うものだ。遺伝による優劣はたかが知れていて、知能形成の大部分、多くの部分を形成していくのは環境だ。劣悪な知性を形作るのは劣悪な環境なのだ。すると優性主義者の欺瞞は自ずとあらわになる。ラッセルやバーナード・ショーやチャーチルetcは運に恵まれただけなのだ、あるいはだけなのではあるまいか?
しかし運に恵まれただけだと言う自覚を欠いたエスタブリッシュメントは常に存在する。時にそれは暴走し民族を虐殺する事すら珍しくない。

残念な事に、こうした勘違いは圧倒的に恵まれた者に現れやすい欺瞞である。
氏素性・財産・資産が運の良い君を作っただけなのに君はそれをもって他の多くの凡人の上位にあるのだと錯覚する。それはかつて共産主義が行った人民統治だ。
残念な事に、現代日本人にも同じ事が言える。東大を出た君は名もない大学を出た彼より自らが優秀だと思う。事実、優秀と呼ばれる教育機関を出た者がそうでないものより豊富な知識や知性を持つのは当然の事だ。だからと言って君自身が特別なわけではない。君はたまたまある環境に生まれ、ある境涯に立っているのだ。
君の仕事はその優秀な知性を誰かをけなす為に用いる事ではない。君のあるべきは君に与えられた知性を活用する事でしかない。

この事を深く理解しなければ本当の公平さ、は理解されない。人間はどうしようも無く生まれるのだ。誰一人親を選んで、環境を選んで、資産を見て、家の大きさを見て生まれてくる者はいない。たまたま運が良かった君がたまたま恵まれなかった彼を蔑む材料など無い。君がわざわざ指摘してバカにして良い事ではない。
勿論例外は存在する。恵まれない子供が優秀な人間?に成長する事は確率的に低くても存在するのだ。しかし、上記したエスタブリッシュメントにはこの事は理解されない。そして彼等はむしろそのような例外を嫌悪する、のは誰しも理解するだろう。実は此の例外こそが人類の多様性と言う希望の大きな材料であるにもかかわらず、だ。

つづく

アビダンマッタサンガハが一書としてようやく手に入った。

これまではPDF版などで集めた物しか手元に無かったがやはり一冊にまとまった物として存在すると意欲が異なる。何の意欲?読む意欲であるねw


「アビダンマッタサンガハ」南方仏教哲学教義概説 新装版

監修 水野弘元

訳注 ウ・ウエープッラ 戸田忠

中山書房仏書林 版 http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/index.htm


まだ届いたばかりなので内容は知らない。と言うか内容は多分今までPDFで読んできた物と異なる所はないだろう。ウ・ウエープッラ師は第6回仏典結集に参加されたビルマの方で1957年から世界平和パゴタで僧院長を勤められた。

パラパラとめくった一項一項にはローマ字が散りばめられているところを見ると要所にはパーリ語が配されているようだ。まずは仏前に奉してから読書開始としよう。


休日、プラプラ?ブラブラ?と買い物に出かける。

書店に立ち寄り何冊か手にとった。

「出雲抹殺の謎」

関裕二

「正法眼蔵随聞記」岩波版

和辻哲郎

「存在の分析」

櫻部健 上山春平


「正法眼蔵随聞記」の岩波版を購入したのは面山本だからだったが欲考えてみると面山本は…まいっか。長円寺本が欲しかったんだった…同じ愛知県にあるのだからいつか長円寺に参りたいものだ。

「存在の分析」はこれまた同じ本を…帰って来て書棚を見て愕然www

仕方ない、私は記憶力は皆無なのである。特に所有物、と言うものに関する執念と言うものに欠けている(爆

そういえば新しいヘッドセットを買った(つもり)のは良かったが、届いたのはヘッドセットではなくヘッドフォンだった(´・ω・`)いや、密林が悪いわけではない、ちゃんと説明を読めば問題など無いのだがすっ飛ばして音質ばかりを望んだ結果がついていないマイクである。ヘッドフォン関係が4個並んだ様は間抜け以外の何物でもない。機能するヘッドセットが1個とヘッドフォンが4個。ほぼヘッドセットしか使わない訳で…


合掌