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転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ

徒然なるままに日々のあれこれやらを綴ります。

空がほんの少し見えただろうか?


事象は一切確定される事なく、自己もまた確定される何かに依らない過去と言葉と、相依から織りなされた確定されざる、存在の有無に規定される事も無い。

自分は見出されない。それは空だから

自己は見出されない。それは空だから


しかしそれはまさしく、過去から織りなされた事象が見せた見出されざる言葉に過ぎなかった。

貴方は誰か?貴方などどこにも居ないし、私もじつはどこにも居ない。

それを自ら、与えられるのではなく生きる。


分節される事なく、本質すらなく、それらの虚偽を滅するとき、あるがままの生を得る。しかし得る主体はそこにはなく、貴方も私も無い。


それはそれまで自分だと思われていた束縛からの完全な開放である。


自我を止めよ

自己を成立する全てを観じよ

と、覚醒は促す

それを滅尽する時、何処にも貴方はなく、私もなく、生のみがあり、死のみがある。


合唱

語りえぬもの、などない。

何故なら全ては現象であり、事象であり、形象であり、心象と言う言葉だけだから。

そこにはアプリオリなモノなどなく、超越すべきナニモノもない。

それらは全て「有る、無い、有る・無い、有るに非ず・無きに非ず」具象化した言葉だけだから。


そこには確定した現在もなく、過去は過ぎ去り、未来は未だ「来ない」。

ここには確定した自己もなく、自我もなく、有る・無い、に確定される事もない言葉だけだから。


これらは全て言葉であり、言葉そのものすらも仮空のシンボルであるだけであり、それは実在しない。実在・不在を確定する事もない。

それは4つの状態に「依って」仮定された「状態」があるのみであり、そこにも確定しうるナニモノも設定されてはならない。


故に、形而上の問題の全ては戯論に排され、排除される。


合唱

Namo tassa bhagavato arahato samma sambuddhassa


語りえないもの、については沈黙しなければならない。


意図的に句読点をつけた。

ウィトゲンシュタインにはウンザリしたので結論を書こう。しかしそれは答えではない。

神や、自己や、自分や、私や、アプリオリに意味はない。

命題の中に主語を用いた時、既にそれは語りえないはずの事を語ろうと言う欺瞞が混入する、と言う真理表をいつか書かなければならないだろう。


あらゆる命題に設定すべきなのは真か偽の2つだけだ。

ウィトゲンシュタインもラッセルも、それ意外のアプリオリなものからの真偽を語るから語りえないもの、等という虚偽が導き出される。

あるのは真偽だけなら、そこには一切の実在を規定すべきではない。

真偽の前には神も自分も他に考えうるあらゆる超越の存在可能性は排除されなければならない。


それが空である。

語りえないこものを前提にする命題は結局、この世界に善きものをもたらす事はない。全ての哲学者が常に戯論にしかたどり着かなかったように…



合唱

朝起きるとそれは始まったのであった…


食えども食えども、出るわ出るわorz


妻さんの通院先で3回


買い物先で4回


帰宅して仕事を始めるまでに2回


仕事中は流石にアドレナリ(関係無いか?・・・で我慢


仕事終了後2回


もう空っぽですわ。



合唱

南直哉師のブログ を見て正直ガッカリしているのである。

彼の日頃の言動には注目して(内緒であるが)、賛同する場面もあり、多分そこそこな禅境にも手が届いているだろうと期待もしていたりするのだ。しかし原発に関しては余りにも浅薄であると言わざるをえない。

責任、と言う言葉がお好きのようだが、仏道にある者が責任等という無為なものに何を期待するのだろう?


このブログで人の批判(公人、政党を除く)をする事はこれまで皆無であったと思うが、今日は批判させてもらわねばならない。戯論を廃する、と言うのでも議論したいのでもない。一仏徒としての批判である。


僧侶、と言うものの重みがこの国ほど軽いのも珍しい事だろう。

それはそれでよろしい。しかし自覚無き軽薄さ故に民を惑わすレベルの人間がそうであると言うのは許しがたい。まずもって原発悪玉論、についての深い思索がこの文章中にあるだろうか?

例えば反原発国家としてのユートピアの如く思われがちなドイツの現状について彼はどのような事をわかっているだろう?翻って、現在の再稼働についての議論を行っている組織の体たらくをどれほど理解しているのか?


地震を予知すると高らかに宣言していつしかそれは予知しえない、と言明した学者がNo2にいる組織が、真理命題的に論理を展開せずに地震と原発の関係を云々して…

こうした事もまぁどうでも良いかもしれない。

しかし、こうした全ての問題において深く思惟し、かつ己の中で明確に真偽を見分け、戯論に流されず、それでいて全ての人の為に良かれ、と言う結論として南師はブログを書いたのだろうか?


いやそうではない、私は即原発撤廃とは書いていない、などと論を外すのは許されない。

それは一切智者である世尊が許されない論理の展開である。

一度原発を稼働させたのであれば人類はそれをトコトン、例え何度か失敗をしたり事故を起こしたとしても使用し、その可能性を極限まで探究し、終わる技術を持つまで使うべきである。自動車を使うように、タバコを吸うように、あるいは包丁や全ての道具を使うように、ボタンひとつで安全かつ完全に無害化出来るまで日本人はそれについて研究しなければならない。それが職人の気質であり、職人を大いに称えられた世尊の論理である。


問題を責任等という無為な言語ですり替えてはいけない。

あの事故を過大な事故にした?のは東電ではなく、当時の政権与党であり、それを支持し応援した国民なのだ。法的にも行政的にも、あのような自然災害の状況にあって最も効率的に利益を度外視して状況にあたれたのは政治である事を忘れてはならない。

これからも必ず、当時の政権の失態が表に出るだろうが、問題はそこにすら無い。徹底的に糾弾すべきはポピュリズムである。つまり、日本人の考える民主主義政治こそが諸悪の根源にある、と観る人間はどうして言論の世界に出現しないのか?


そして元に戻して南師のような立場の者こそ、真を真であると、僞を僞であると修証すべきなのではないか?このような浅墓な文章を書いていてはそのうち南伝に仏教は塗り替えられるだろう(こちらも全く信用ならざる戯論の仏教であるが)。


実にケシカランので書いた。決して後悔はしないw



合唱

仕事は忙しいっす。不調なのは体調でありまっす。


首にシコリが出来ました。腫れて痛いっす。

晴れると言う事は炎症してると言う事っす。

炎症してると言う事は白血球増加中っす。

白血球増加中よ言う事は乳酸増加っす。


メッチャダルイっす。

にも関わらず忙しいっす。

横になっても首痛いっす。

かみさんはリンパ腫だと断言でっす。

死にまっす。


でも大丈夫!

全ては空wwwwww



寝ます合唱

朝まで、眠りが訪れなかった。

昨日は東京大空襲の日であり、今日は東日本大震災の日である。


いつも、毎日、何処かで悲劇は起きている。それを観るか観ないかだけの事である。

過ぎ去った日に思いを馳せて悲しみに浸っても何も初められないが、それを忘れずにそこから学ばなければ去った人々に報いる事も出来ない。

3年の間に何を学んだだろうか?


体質的にか、無意識的なものなのか、このような日は体調が悪い。

朝から身体が重い。しかし同時に今日は妻の誕生日である。とても複雑な日ではある。昨夜はPCBの前に座っていても居心地が悪く床に横になっていた。

3年前の今日、妻の誕生日の祝いの買い物の最中に揺れを感じ、ケーキを買いに車を走らせる車中で津波の映像に愕然とした。


今日の昼、黙祷してから耐え切れず身体を横にした。


全ての生が平安であれ。

幸福であれ。

安らかであれ。



合唱


「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経(PTS Text,MN.Vol.1,pp.426-432.)
漢訳:中阿含」二二一経(『大正蔵』一、八〇四上~八〇五下)、『箭喩経』(『大正蔵』一、九一七中~九一八中)。


このように、わたしによって聞かれた。
あるとき、尊師はサーヴァッティにあるジェータ林の給孤独長者の園に滞在していた。
そのとき、マールンクヤプッタ尊者は静かなところにいて独座していたが、このように、心に探究が生じた、(すなわち)
「次のような、見解は、尊師によって語られず、捨て置かれ、拒絶されている、すなわち
『永遠であるのは世界である』も
『永遠でないのは世界である』も
『有限なるものは世界である』も
『無限なるものは世界である』も
『命と身体は同じである』も
『命と身体は別である』も
『如来は死後に存在する』も
『如来は死後に存在しない』も
『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語らなかった。
これらのことを尊師がわたしに語らないというこのことは、わたしにはうれしくない。このことはわたしには耐え難い。
わたしは、尊師のもとに近づいて、この意味をたずねよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後に存在する』とか
『如来は死後に存在しない』とか
『如来は死後に存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後に存在するのではなく存在しないのでもない』とか
語るならば、わたしは尊師のところで清浄行を行うことにしよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後存在することはまったくなく存在しないのでもない』とか
語らないならば、わたしは学ぶことを止めて還俗してしまおう」と。

さて、そこで、マールンクヤプッタ尊者は、夕刻時に独座より立ち上がって、尊師のところに近づいた。近づいて、尊師に敬礼してかたわらに座った。

さて、かたわらに座ったマールンクヤプッタ尊者は、尊師にこのように言った。
「今ここで、尊師よ、一人静かに独座していたわたしに、心の中に次のような探究が生じました。
:(すなわち)次のような、見解は、尊師によって語られず、捨て置かれ、拒絶されている、すなわち
『永遠であるのは世界である』も
『永遠でないのは世界である』も
『有限なるものは世界である』も
『無限なるものは世界である』も
『命と身体は同じである』も
『命と身体は別である』も
『如来は死後に存在する』も
『如来は死後に存在しない』も
『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語っていない。
これらのことをわたしに語らないという、このことは、わたしにはうれしくない、わたしには耐え難い。わたしは、尊師のところに行って、この意味をたずねよう。

もし、わたしに尊師が
『永遠であるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後に存在する』とか
『如来は死後に存在しない』とか
『如来は死後に存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後に存在するのではなく存在しないのでもない』とか
語るならば、わたしは尊師のところで清浄行を行うことにしよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後存在することはまったくなく存在しないのでもない』とか
語らないならば、わたしは学ぶことを止めて還俗してしまおう」と。

もし尊師が
『永遠であるのは世界である』と知っているならば、
『永遠であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『永遠でないのは世界である』と知っているならば、
『永遠でないのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『永遠であるのは世界である』か、または、
『永遠でないのは世界である』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『有限であるのは世界である』と知っているならば、
『有限であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『無限であるのは世界である』と知っているならば、
『無限であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『有限であるのは世界である』か、または、
『無限であるのは世界である』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『命と身体とは同じである』と知っているならば、
『命と身体とは同じである』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『命と身体とは異なっている』と知っているならば、
『命と身体は異なっている』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『命と身体は同じである』か、または、
『命と身体は異なっている』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとって、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは、知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『如来は死後存在する』と知っているのであれば、
『如来は死後存在する』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在しない』と知っているのであれば、
『如来は死後存在しない』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在する』か
『如来は死後存在しない』かのいずれであるか
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのがだけが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『如来は死後存在するし、かつ、如来は死後存在しない』と知っているならば、
『如来は死後存在するし、かつ、如来は死後存在しない』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後に存在するのではないし、存在しないのではない』と知っているならば、 『如来は死後存在するのではないし、存在しないのではない』とわたしに尊師が語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』か、あるいは『如来は死後存在するのではないし、存在しないのではない』と知らないのであれば、
知らない人見ない人にとっては、次のようにあるのだけが正しい、すなわち、 『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。」

「それでは、マールンクヤプッタよ、おまえにわたしがこのように言ったことがあったか、『来たれ、マールンクヤプッタよ、おまえはわたしのところで清浄行を行いなさい。わたしはおまえに語るだろう、すなわち、
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と」

「いいえ、そうではありません、尊師よ」

「あるいは、また、おまえがわたしにこのように言ったことがあったか、『尊師よ、わたしは尊師のところで清浄行を行いましょう、尊師はわたしに語ってくれるでしょう、すなわち、
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と」

「いいえ、そうではありません、尊師よ」

「そう言うことだ、マールンクヤプッタよ、わたしがおまえに
『来たれ、マールンクヤプッタよ、おまえはわたしのところで清浄行を行うがよい、わたしはおまえに語るだろう
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と話すということは全くない。

そしてまた、マールンクヤプッタよ、わたしにおまえが
『尊師よ、わたしは尊師のところで清浄行を行いましょう、尊師はわたしに 語ってくれるでしょう、すなわち、
『『永遠なるものは世界である』
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と話すということもない。
このようであるのに、愚か者よ、何を拒絶するのだ。

マールンクヤプッタよ、人が次のように言うのであれば:すなわち「尊師がわたしに
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と語らないのであるかぎりは、わたしは尊師のところで清浄行を行わないだろう」と(言うのであれば、その場合、)
マールンクヤプッタよ、如来によってそのことは語られず、かの人は、死んでしまうだろう。

たとえば、マールンクヤプッタよ、人がしっかりと毒の塗られた矢によって射られたとき、友人や親族は、医者、外科医に手当てさせ看護するだろう。

そこで、彼は次のように言うとしよう:「射た人が、クシャトリアであるか、バラモンであるか、ヴァイシャであるか、シュードラであるか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、これこれの名前で、これこれの氏族であると知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、背が高いか、低いか、中くらいか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、肌が黒いか、黒褐色か、金色か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射たものが、これこれの村にいるのか、これこれの町にいるのか、これこれの都市にいるのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射た弓が、チャーパ蒜か石弓か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射た弓の弦が、アッカ草からなるのか、サンタ葦からなるのか、腱からなるのか、麻からなるのか、キーラパルニン草からなるのか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢柄が、カッチャ葦なのか、ローピマ葦か知られないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう:「射た矢柄のその先についている羽が、鷲のの羽か、青鷺の羽か、孔雀の羽か、シティラハヌ鳥の羽であるか知らないうちは、わたしは、この羽を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢柄にまいてある腱が牛のものか、水牛のものか、鹿のものか、猿のものか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢が、クラッパ(尖箭)種なのか、ヴェカンダ(鉤箭)種なのか、鉄矢なのか、犢歯箭なのか、夾竹桃葉箭なのか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。


マールンクヤプッタよ、このことはまったくこの人には知られず、この人は、死んでしまうだろう。
まったく同じように、マールンクヤプッタよ、このように言う人があるとしよう:「わたしに尊師が次のように語らないうちは、わたしは尊師のもとで清浄行行わないだろう、すなわち
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と。
マールンクヤプッタよ、その場合、如来によって語られないので、その人は死んでしまうであろう。

マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『永遠でないのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『永遠でないのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『有限であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『無限であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『有限であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『無限であるのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは一つである』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは異なっている』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは一つである』という見解があろうと、あるいは、『命と身体とは異なっている』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在する』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在しない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在する』という見解があろうと、あるいは、『如来は死後存在しない』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在し、かつ、存在しない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはない。
マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在し、かつ、存在しない』という見解があろうと、『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』という見解があろうと、あいかわらずせいがあり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

それだから、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして、語られたものは、語られたものと憶持しなさい。

マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったものとは何であるか?
マールンクヤプッタよ、『永遠なのは世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『永遠でないのは、世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『有限であるのは世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『無限であるのは世界である』というのは、わたしによって語らなかったことである。
『命と身体とは一つである』というのは、わたしによって語られなかったことる。
『命と身体とは異なっている』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在する』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在しない』というのは、わたしによって語られなかった事である。
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』というのは、わたしによって語られなかったことである。

なぜ、これらのことが、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったのか?:
これらは、マールンクヤプッタよ、利益をともなわず、最初の清浄行のものではない。厭離に導かず、離欲に導かず、止滅に導かず、寂静に導かず、証智に導かず、正覚に導かず、涅槃に導かない。それだから、これらは、わたしによって語られないことである。

マールンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
マールンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。

マールンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
なぜなら、マールンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。

それだから、マールンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。
 
このことを尊師は語った。心かなえるマールンクヤプッタ尊者は、尊師によって説かれたことを喜んだ。

Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi – "bhikkhavo"ti. "Bhadante"ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – "bhaddekarattassa vo, bhikkhave, uddesañca vibhaṅgañca desessāmi. Taṃ suṇātha, sādhukaṃ manasi karotha; bhāsissāmī"ti. "Evaṃ, bhante"ti kho te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca –

"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.

"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.

"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni".

"Kathañca, bhikkhave, atītaṃ anvāgameti? 'Evaṃrūpo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃvedano ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃsañño ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃsaṅkhāro ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃviññāṇo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, atītaṃ anvāgameti.

"Kathañca, bhikkhave, atītaṃ nānvāgameti? 'Evaṃrūpo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃvedano ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃsañño ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃsaṅkhāro ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃviññāṇo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, atītaṃ nānvāgameti.

"Kathañca, bhikkhave, anāgataṃ paṭikaṅkhati? 'Evaṃrūpo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, evaṃvedano siyaṃ…pe… evaṃsañño siyaṃ… evaṃsaṅkhāro siyaṃ… evaṃviññāṇo siyaṃ anāgatamaddhānanti tattha nandiṃ samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, anāgataṃ paṭikaṅkhati.

"Kathañca, bhikkhave, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati? 'Evaṃrūpo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, evaṃvedano siyaṃ … evaṃsañño siyaṃ… evaṃsaṅkhāro siyaṃ… 'evaṃviññāṇo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati.

"Kathañca, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati? Idha, bhikkhave, assutavā puthujjano ariyānaṃ adassāvī ariyadhammassa akovido ariyadhamme avinīto sappurisānaṃ adassāvī sappurisadhammassa akovido sappurisadhamme avinīto rūpaṃ attato samanupassati, rūpavantaṃ vā attānaṃ, attani vā rūpaṃ, rūpasmiṃ vā attānaṃ; vedanaṃ…pe… saññaṃ… saṅkhāre… viññāṇaṃ attato samanupassati, viññāṇavantaṃ vā attānaṃ attani vā viññāṇaṃ, viññāṇasmiṃ vā attānaṃ – evaṃ kho, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati.

"Kathañca, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati? Idha, bhikkhave, sutavā ariyasāvako ariyānaṃ dassāvī ariyadhammassa kovido ariyadhamme suvinīto sappurisānaṃ dassāvī sappurisadhammassa kovido sappurisadhamme suvinīto na rūpaṃ attato samanupassati, na rūpavantaṃ vā attānaṃ, na attani vā rūpaṃ, na rūpasmiṃ vā attānaṃ; na vedanaṃ… na saññaṃ… na saṅkhāre… na viññāṇaṃ attato samanupassati, na viññāṇavantaṃ vā attānaṃ, na attani vā viññāṇaṃ, na viññāṇasmiṃ vā attānaṃ – evaṃ kho, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati.

"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.

"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.

"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni".

"'Bhaddekarattassa vo, bhikkhave, uddesañca vibhaṅgañca desessāmī'ti – iti yaṃ taṃ vuttaṃ idametaṃ paṭicca vutta"nti.

Idamavoca bhagavā. Attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti.

Bhaddekarattasuttaṃ niṭṭhitaṃ paṭhamaṃ.

母が二階に引っ越し以来、座る時間が減る一方になった。

座禅にしても安般念にしても「入る」までの最大の障壁は音だ。音は刃だ。それは突き刺さり、全てを乱す。特に自分のような未熟者にはw

出来る事は観行となる。勿論、常住坐臥全ては行なのだから形にこだわる事など無い。楽を求めるのは貪だし、座も安般念も楽のための行じゃねーしな。


幸福であれ。

安楽であれ。

自由であれ。


行に住ぜず、智慧に住ぜず、そのいずれにとどまる事なく、中に行ず。これ空、しかして空に留まらず。


合唱