夏旅2022 濃昼の殿様 カネシメ木村番屋 | シリベシアン(後志人・Shiribeshian)

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北海道難読地名「濃昼」!

 

文字だけでなく住所もややこしい。谷間を流れる濃昼川をはさんで、南側が厚田区濃昼、北側が浜益区濃昼となっている。

 

今でこそ石狩市に属して同じ自治体となったが、以前は厚田村と浜益村に分かれていた。

 

「ごきびる」の由来は諸説あるが、アイヌ語の「オキピリ」 川下からそそり立つ崖 。

 

浜益区の濃昼漁港近くに、かつて「濃昼の殿様」と云われた木村家番屋が現存する。この建物は1900年(明治33年)頃に建てられた。

 

 

応接間を持つ和洋折衷の珍しい建物で、網元の住居として左の番屋に増築した。屋根にトンガリ帽子が載っている。母屋横にあった、れんがと木造の倉庫は取り壊されている。

 

 

玄関左7室が網元家族の住まいになっている。右半分は仏間、床にレンガを矢筈(やはず)に敷き詰められている洋風応接間、畳敷き帳場となっている。壁と天井は白漆喰仕上げ、桜の花びらと唐草模様のランプ釣元飾りはアセチレンランプが釣られていた。

 

 

津軽から来た棟梁は和洋の調和が思うようにいかず、完成を前に裏山で首を吊ったという話が残っている。

 

 

大正7年北海道漁家百番附、西の大関に浜益木村円吉の名がある。

 

 

木村家初代源右エ門は津軽半島大泊(現在の今別町)の漁師だった。二代源右エ門が1849年(嘉永2年)から蝦夷地に出稼ぎする。

 

1855年(安政2年)からは浜益村群別でニシン建網を経営するようになった。

 

1873年(明治6年)、三代源右エ門は浜益村幌に定住する。浜益には青森の同郷の人が集まったという。

 

四代源作は本拠地を小樽に移し、浜益の漁場の他に倉庫業や石油製造業にも進出した。1892年(明治25年)頃には、鰊建網十ケ統までになっていた。

 

漁場は別家し濃昼に定住した五代哲男が取り仕切るようになり、豪奢な母屋が建設されたのはこの頃といわれている。

 

五代哲男は他の親方衆のように小樽の別邸で暮らすのではなく、番屋で生活を続けていたため「濃昼の殿様」といわれた。

 

大正、昭和になると漁獲量の変動が大きくなり経営は厳しくなって行く。浜益村議会議員を務めた六代源作の話によると、それでも1954年(昭和29)年には、現在に例えると2億円相当の水揚げがあったそうだ。しかし翌年ニシンは一尾も獲れなくなった。

 

 

観光客で賑わう小樽・堺通リの北一硝子三号館(北一ホール)は旧木村倉庫だ。

 

小樽商工会議所会長も務めた木村円吉は浜益漁場を手掛けていた木村一族の本家。

 

ヤマシメ木村は青森市大町に呉服店、小樽に支店、浜益に漁場、他に小樽に厖大な土地を所有し、倉庫、廻船問屋も営んだ。

 

木村家の基礎を築いた二代円吉は幼名を百太郎といい、福島村の漁家花田伝七(のちの鬼鹿大網元カネニ)の三男で、明治25年、22才の時に始祖円太郎の孫娘ミヤの婿養子となった。円太郎の後継ぎ円司は青森で呉服商を営んでいたが40代で亡くなったためだ。

 

 

道内唯一の和洋折衷木造漁場建築ですが、国の文化財指定などの行政サポートはなく、有志によるサポートの会も2021年9月26日をもって解散したため、現在は内部公開されていない。

 

 

本家のヤマシメ、別家のカネシメ、名前も襲名しているので関係も難しく、よく分からなくなってきた。ちなみに浜では、本家、別家ですよね。

 

親方衆も一緒に住んでいた後志の鰊御殿との違いは、番屋は漁期だけ赴くか、または親族に任せて小樽の別邸で暮らしていたゆえんかな?