寿都湾・周都湾 歌棄 有戸 | シリベシアン(後志人・Shiribeshian)

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We will introduce sightseeing spots in Hokkaido, mainly Niseko and Shakotan.

寿都湾(すっつわん)は日本海北東部、北海道西部にある湾。
湾口の幅約9km、奥行き約6km。北に開けた湾であり、湾の西岸には弁慶岬のほか、寿都町の中心部や寿都漁港がある。湾奥には朱太川が流入しており、河口付近は砂浜海岸となっている。湾内では、サケなどの定置網のほか、カキやホタテなどの養殖が行われている。(フリー百科事典ウィキペディア)
 
榎本武揚、1868(明治元)年12月25日歌棄に守備兵を置く。
1871(明治4)年4月、作開観音寺(1859(安政6)年開山)の木版にサインする。観音寺には開拓に入った会津藩士(斗南藩)の墓があります。
歌棄が会津松平家斗南藩の領地だったのは明治3年1月~同4年8月まで。
 
榎本武揚は歌棄と関係ありましたね。
 
 
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定されている歌棄鰊御殿。
建材を集めるのに4年、運んでくるのに3年、「板蔵」の中で乾燥させて3年、建築に4年、14年の歳月をかけて明治12年に完成した。当時のお金で7万円を費やした大豪邸だ。
 
福井出身の橋本家は仕込家と呼ばれ、鰊漁家に資金や資材を提供する資本家であった。また、弁財船「酒井丸」「長栄丸」「金栄丸」の船主でもあった。他に美谷に鰊漁場2カ統を持っていたようだ。
 
文献によく出てくるニ八取りとは、場所請負人は自分の場所の海面で出稼人の鰊漁を承認する代償として漁獲物の二割を役鰊として微収したのが由来とされる。
橋本家は代金として受け取った数の子、身欠鰊、鰊粕などを北前船と言われる五百石積みの弁財船で大阪、界に運び、売りさばいて莫大な利益を上げ、米や酒、生活必需品を船いっぱいに積んで帰って来ていた。
 
歌棄前浜には100隻の弁財船が買い付けで停泊し、寺町には28軒の遊郭が並んでいたという。今では考えられない風景だったようだ。
 
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現在は旅館として営業していて、その昔は岸信介総理や力道山も来られたようです。
 
母屋の隣にある蔵にブルーシートをかけてあるが、国道229号線拡幅前はもっと沢山の石蔵が建ち並んでいたという。贅をつくして建てた御殿も100年以上風雪にさらされ、傷みが目立つようになっている。
 
永田地名解
アルトゥル Aruturu 一半ノ間 有戸村ノ原名
シレトゥ Shir’etu 岬 直訳地鼻
 
歌棄鰊御殿前の稲穂崎です。
 
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対岸は寿都だ。
 
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「忍路高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで」 
江差追分碑です。
歌棄にあった運上屋は稲穂崎向こう、画像右側からの有戸に移転した。
 
 
西蝦夷日誌
ヲタスツ運上屋(通行や、備米蔵、板蔵八、漁小や、弁天、いなり)当所地名シリエトにして岩岬の義。又トマリとは船澗(ふなま)よき故に號(なづ)く。ヲタスツは前に云如し。地形後にヲタスツ岳と云有、浜西向、スツツ(寿都)と対して湾をなす。土人(文政改、46軒、209人。安政改15軒、54人)然る処去暮痘瘡にて多く死し、当時廿人に不足のよし也。馬は当春始て来し由にて、新道を馬にて繼立る也。ニ八出稼多く、土産、鰊・鮑・平目・カスベ・鱈・海鼠・鮭・雑魚・駄昆布・ふのり・材木多し。新道と合が故、当所より又一しほ繁昌也。
 
歌棄鰊御殿橋本家から約1キロ北(札幌寄り)にあるのが、角十(かくじゅう)佐藤家だ
 
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佐藤家の家祖は定右衛門といい、天保四年に箱館に渡り、択捉漁場の請負人となったが、これに失敗し、天保13年頃より箱館にあって新鱈漁業に従事。福山に支店を開き、伊三右衛門(桝屋栄五郎と称す)に管理させた。伊三右衛門は嘉永2年に分店を相続したが、歌棄・磯谷の場所請負人西川徳兵衛が収支償わず返上するのを知り、嘉永5年、佐藤栄右衛門名義で「せめて歌棄磯谷だけ」を手に入れた。1849(嘉永2)年に行成網を発明。この地方の漁法を改革し繁栄の基礎をつくった。安政3年、定右衛門没し、伊三右衛門後を嗣ぐ。1856(安政3)年、黒松内山道完成。朱太川渡船場から追分まで、桝屋栄五郎が費用を出資、父の定右衛門が受け持ち竣工した。これにより一代苗字を称するのを免される。明治2年養父定右衛門の孫を養子とし、栄右衛門と改めさせた。
 
黒松内町史によると、
桝屋定右衛門、福島県信夫郡飯坂村出身、1817(文政11)年31歳の時渡道、松前枝ヶ崎町にて呉服太物店桝屋を開き、栄五郎(初代)と称し、また箱館で海産商を営む。
 
桝屋栄五郎、福島県飯坂村、佐藤伊佐衛門の三男、1815(文政9)年10月生まれ。嘉永2年4月23歳の時、定右衛門の相続人として渡航、同年6月栄五郎と改名、定右衛門籍から分家する。嘉永5年正月、歌棄磯谷両場所の請負人(持主)となる。
 
うん???
ごちゃごちゃでよく解りません。
伊三右衛門は始め重三郎、次いで栄五郎、場所請負人としては栄右衛門と称し、隠居して伊三右衛門と称した。
 
昔の名家は襲名、養子が多く複雑です。
佐藤家は磯谷編でも出てくるので、ここは要チェックです。
 
1915(大正4)年、四代目佐藤栄右衛門は第12回衆議院議員選挙で当選。しかし残念なことに1917(大正6)年、議会出席中に死亡。
寿都町関連の国会議員では、鈴木善幸内閣時に郵政大臣を務めた「箕輪登」がいる。
 
昭和43年3月29日北海道有形文化財指定。
この建物は明治20年頃建築です。
 
建物内部は養鶏場になっていた時代があった。
指定されてから止めたのか、よく分かりませんが、昭和50年頃まではそうだったようです。